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日本ホーリネス教団
別 府 キ リ ス ト 教 会

 説教「栄化される天来の喜び」
  2024年3月3日 黒澤俊人勧士

聖書箇所  ピリピ書3章17〜21節
中心聖句 キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。同21節

前回は、黒澤明監督の傑作、七人の侍の話しをしました。今日は、今村昌平監督の楢山節考の、いわゆる姨捨山伝説をまずお話ししたい。原作は、深沢七郎。
映画の方は、原作から逸脱しているのではないかと思うほどに今村昌平監督は描きだしています。しかし、圧巻は、やはり緒方拳演じる、根っこの辰平が母親おりん、(演じるのは坂本スミ子)を背負子に乗せて、穏やかな顔をして一言も発せず、里にある住まいから枯れ骨の谷に運ばれていくシーンです。
枯れ骨の谷、そこは人里はなれた、まさに姨捨山。この楢山節考の作品を見ますと、これまで生きてきた生への感謝、死とは何か、寿命は幾つであるべきか、死後の世界は本当にあるのか、などなど、考えさせられます。特に、坂本スミ子演じる『おりん』老女が、「おらあ、この冬、お山いくだ。お山にいけば、まつやんにも会える」
何が言いたいかと言うと、死後の世界、日本人はあの世と言う、があるかどうかです。そんなものはない、という人もいれば、死んだら無になるのだと言う人もいます。また別の方は死後の世界はあると考えます。死後の世界があると考える人たちが口を揃えてこういいます。『お迎えが来る』と。

 聖書は、明確にこう述べています。
「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」ヘブル書9章27節
楢山節考のおりん老女、とその息子辰平、その家族、更に村人はみな死後の世界を信じて生きていました。死後の世界がなければ、この地上の生活は無に等しいと考えていたのです。この暗い考え方を、私は打破したい、そう思って今日は喜んで説教したい。

1.四重の福音
私たちの日本ホーリネス教団は、その旗印として、新生、聖化、神癒、再臨を掲げています。何年か前に、教団はポスターを作りすべての教団に属する教会に配布しました。大きさはA2サイズくらい。そのポスターが掲げられていると、ああこの教会はホーリネス教団の教会だなと思わされます。

新生、聖化、神癒、再臨の信仰は、四つの祝福があります。
ひとつ、新生とは、キリストによる救いの喜び
ひとつ、聖化とは、聖霊による清めの体験
ひとつ、神癒とは、聖霊による癒し
ひとつ、再臨とは、主なる神に真見ゆる歓喜

聖霊の実の筆頭にあるのは愛です。日本語では愛すると言うより愛でると言ったほうがいいかもしれません。愛でるのですから、対象を触りません。愛の対象に触れません。物理的に触れなくても一つになる愛です。例えば、公衆浴場に行きますと、二才くらいの男の子が父親に縋りつきながら湯につかる、幼い男の子は、しっかりと父親の腕に抱きかかえられ、父親のたくましい腕は、息子の体を抱く、互いに愛しているから成り立つ。
聖霊に導かれているパウロは、確信を持ってこう言っています。
「私にならう者となってください。」17節a
また続けて
「また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。」17節b
聖霊に直接導かれている方は、それがベストです。聖霊に直接導かれている方の特徴は、
第一に、いつも喜んでいる方です。
第二に、絶えず祈る方です。
第三に、すべての事を感謝する方です。
一つでも成すことができれば、聖霊は臨まれるでしょう。三つとも出来れば、必ず御霊は働きます。
三つとも出来ないという方々は、一つでも、二つでも、願わくば三つ出来ている方に従っていけばいいのです。自分を愛してくださる、愛でてくださる方には、身を任せた方がいいです。
 
 18節をご覧下さい。
「というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。」
今もそうです。御霊が共にいないと、キリストの十字架の敵対する者となりやすい。まして、御霊を悲しませる者、救いに導く、つまり伝道に反する者、御言葉の語りに反する者、は十字架の敵になりやすい。
真の神を神としない者は、キリストの十字架に敵対する者です。「彼らの神は、その腹」口語訳、「彼らは欲望を神とする」新改訳2017 つまり自分勝手ということ。「彼らの思いは地上のこと」口語訳、「地上のことだけを考える者」新改訳2017 地上のことだけを思う者、つまり金だけ、今だけ、自分だけの人生を送る人はキリストの十字架に敵対する人です。御言葉をも利用して、この世の富や己の名声、権力を得ようとする者も含まれます。
20節には、「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。」
私たち日本人は、この地上では日本国籍です。しかし、私たちの霊の国籍は、主なる神が支配なさる天国なのです。

3.栄化の恵み
21節に「キリストは、万物を従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。」とあります。
後、一か月しますと、私たち教会は、イースターを迎えます。父なる神が、御子イエス様を死からよみがえらされた、墓に埋葬されたお体を本来の栄光のお体になされた、復活を祝い、感謝する祭りです。
肉体が癒されるように、再臨の日には私たちの魂が霊、肉ともに癒され、栄化される。
その時の様子が、すでに旧約聖書に預言されています。エゼキエル書37章1〜10節
「主の手が私に臨んだ。主はその霊によって私を連れ出し、平野のただ中に私を置いた。そこには骨が満ちていた。主は私にその周囲を行き巡らせた。すると、その平野にはおびただしい骨があり、それは枯れ果てていた。主は私に言われた。「人の子よ、この骨は生き返ることができるか。」私は言った。「主なる神よ、あなたはご存じです。」主は私に言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。主なる神はこれらの骨にこう言われる。今、私はあなたがたの中に霊を吹き込む。するとあなたがたは生き返る。私はあなたがたの上に筋を付け、肉を生じさせ、皮膚で覆い、その中に霊を与える。するとあなたがたは生き返る。こうして、あなたがたは私が主であることを知るようになる。」
 私は命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。地響きがし、骨と骨とが近づいた。私が見ていると、それらの上に筋ができ、肉が生じ、皮膚がその上を覆ったが、その中に霊はなかった。主は私に言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言え。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹いて来い。これら殺された者の中に吹きつけよ。すると彼らは生き返る。」私が主に命じられたように預言すると、霊が彼らの中に入った。すると彼らは生き返り、自分の足で立ち、おびただしい大軍となった。」

そくたくの効!
イースターを象徴するのは、卵です。欧米ではイースターエッグと言って、教会は鶏の卵を茹でて、包装して皆に配り、卵から雛鳥が生まれる情景を想像し、主イエス様が死から、墓からよみがえられた、歴史的事実を認識する象徴物がイースターエッグです。
 ある弁護士さんが、こう言いました。母鶏が卵を抱き、孵化する時には、母鶏はやたらに卵の殻を嘴でつつかない。必ず、子鳥が卵の中で殻を内側からつついて、母鶏は子のつつきを感知してからでないと殻を破らないのだそうです。
 こう言われたとき、私はラザロの復活の有り様を連想しました。ヨハネの福音書11章38〜44a節にその光景が記されています。
「イエスは再び心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓は洞穴で、石が置かれてふさがれていた。イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」
そこで、彼らは石を取り退けた。イエスは目を上げて言われた。「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。あなたはいつでもわたしの願いを聞いてくださるとわたしは知っておりましたが、周りにいる人たちのために、こう申し上げました。あなたが私を使わされたことを、彼らが信じるようになるために。」そう言ってから、イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。」すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。」

再臨の時、主イエス様はこの世に再び来られ、私たちひとりびとりに声をかけられます。
「○〇よ、出て来なさい」
霊の耳を持っている私たちは、
主イエス様の声を聞き、墓から出ます。そして瞬間的に私たちは、栄光に輝く霊のからだに変えられます。主イエス様がラザロに声をかけられたように、私たちは再臨の主イエス様に声をかけられ、枯れ骨のようなつたない私たちのからだは、肉がつき、筋がはりめぐらされ、主の霊が吹き込めれて、私たちはよみがえらされ、栄化される、主イエス様と同じような霊の体にされる。
私たちひとりびとりが、聖霊に導かれて、栄光の体に変えられることを求めようではありませんか。
いにしえの聖徒たちは、「アーメン、主イエスよ、来りませ」と日々祈り、週ごとに集い礼拝していました。私たちも、今、「アーメン、主イエス様、来てください」と日々祈り、賛美し、聖霊に導かれて、この地上の毎日を、新生、聖化、神癒、再臨の信仰を持って歩んでいこうではありませんか。
キリストは、万物をご自分に従わせるこ
とさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。キリストは、万物を従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。
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完全を目指す喜び」
        2024年2月18日 黒澤俊人勧士

聖書箇所  ピリピ書3章12~16節
中心聖句 ただし、私たちは到達したところを基準にして進むべきです。新改訳2017
ただ、わたしたちは、達しえたところに従って進むべきである。口語訳
いずれにせよ、私たちは到達したところに基づいて進みましょう。共同訳
Only let us hold true to what we have already attained and walk and order  our lives by that. AMP
同16節

「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。兄弟たち。私は、自分がすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。もしも、あなたがたが何か違う考え方をしているなら、そのことも神があなたがたに明らかにしてくださいます。ただし、私たちは到達したところを基準にして進むべきです。」
ピリピ3章12〜16節

別府市立田町に住み始めて、気がついたことのひとつに、平日の朝、前面道路、松原公園通りと言いますが、車の通行が頻繁になることです。ところが、8時30分を過ぎると、ハタッと車の通行か止み、静かになります。浜脇から北西に向かう道路の一部が学童の通学時間帯、午前7時30分から一時間、通行規制がかかりますので、教会の前面道路、松原公園通りがその迂回路になり、約 200〜300台の車両が通行します。また永石通りから蓮田橋に向かう道路は、南小学校児童の通学路になっていて、南小学校の児童たち約20名は、松原公園通りを横切る時に車という凶器に晒されているのに気がつきました。そこで安全確保のためその交差点で立哨して安全通行のボランティアを始めました。南小学校登校日の午前7時50分から約40分間、教会堂に至近の交差点にて、交通整理活動をしています。松原公園通りと通学路の交差点に立哨し交通整理をするのは地域伝道の一環と位置ずけ、2018年6月から始めました。初めの内は、変なジジイが立っているくらいに思われていましたが、めげずに祈り心をもって、明るい声で、『おはようございます』と発声しながらやっていますと、児童やご近隣の方々から、「ご苦労様」、「いつも有難う」と返礼を受けるところまで来ました。皆さん地域伝道・隣人宣教は、挨拶から始まります。仲良くならなければ伝道はできません。伝道の最先端は、個人伝道ですから、個人的に挨拶し、個人的に仲良くなり、個人的に主イエス様を証しするまたは、救われた証しをするのです。

  1.    罪の過去の生涯に頼らない
先程朗読していただきました13節に「うしろのものを忘れ、」とありました。自分から見て後ろということよりも、御霊が進んでいく方向から見て、後ろという意味です。御霊に導かれていたパウロ師は、御霊がどこに導くのか、その都度示しがありました。かつパウロ師の自由意志も御霊はお考えになられたようです。人生山あり谷あり平坦な道はない。むしろ苦難の道だったとよく言われます。私たちのクリスチャンの生涯も同じです。山あり谷あり決して平坦な道ではありません。特に山に差しかかる時に、その道は曲がりくねってスイッチバックをするようにしてうねうねと登っていきます。見方によっては後戻りするような方向を向くこともあります。でもその道は必ず峠を越え、御国にたどり着く道です。そのような峠を越えるような厳しい道を通らなくても、御霊がトンネルを掘削して山を通過させることがあるかもしれません。また力が与えられて鳥のような翼が与えられてその山をひとっ飛びに超える鳥のような信仰を与えられた方もいるかもしれません。いずれにしても御霊の助け無しでは御国に着くことは出来ないのです。まして、自分勝手な道を行くならば、必ず迷います。また行く道筋、方向を誤っては当然目的地にはたどりつけません。更に考えなければならないことは、聖霊の示す道には、危険もありまた悪魔のワナも仕掛けられているかもしれません。悪魔は巧妙です。御言葉さえも利用する。律法に、新約聖書にもありますが、「あなたの隣り人を自分自身のように愛しなさい。」レビ記19章19節、を引用して、悪魔は、こう言います「ほらレビ記を見て見ろ、使徒マタイも言ってるぞ、『自分自身を愛せよ』と。だからまず自分を愛することが大切だ。いな一番大切だ、だから自分勝手しても神様は赦してくれるぞ」
聖書の言葉の一部を切り取って、自分の欲望をかなえることを正しいとする過ち、罪に誘う。自己中心の考え方は、自分勝手がもたらすのは三つ罪、
    第一に、忘却の罪。過去の神の恵み、祝福を忘れてしまう罪。
    第二に、偶像礼拝。欲望の正当化、罪の習慣化と言ってもよい。
    第三に、傲慢の罪。相手のことを全く顧みない罪。
パウロは今日の聖句の中で「うしろのものを忘れ」と、自己中心の考え方、自分勝手な行いを執ることのないよう勧めているのです。

  2.未完成の現状 現在
12節で「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。」とパウロ師は語っています。ダイナミックな、動態的な信仰の在り方に目を留めたい。また「そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。」と続きます。パウロは神にとらわれていました。主イエスキリストに捕らえられたと言っています。どんな力で神様はパウロを捉えたんでしょうか。力づくではありません。権威でもありません。愛の力で主イエス様はパウロを捉えたのです。思い出してくださいパウロはあのダマスコ途上、大きな主の愛を感じました。「私を愛し、私のためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。」ガラテヤ2章20節 と告白し主の大きな愛に捕らわれている証しをしています。
この源は、神の愛のに他なりません。命を捨てるほどに私たちを愛し愛し抜いておられた主イエス様の愛にパウロは捉えられていたのです。十二使徒も同じですペテロを始めとして12人の弟子たちは皆この大きな愛の大きさに包まれていました。御霊の働きはなんですかその筆頭に来るのは愛です。

主イエス様は、へり下って、人のレベルまで自ら引き下げられ、私たち人間と同じすがた、地位、肉体を取られた。神の御子であるにも関わらず、身も心も人間と同じになられた主イエス様でした。
多く愛された者は、多く愛します。私はもっと言います。多く愛されたと感じる方は、その愛に感じて多く愛する。
パウロ師の神学は、天から地にくだされる福音のように聞こえます。逆に使徒ペテロの場合は、この地上で主イエス・キリストの変貌された栄光の姿を見、そして主イエス様がオリーブ山から昇天されるお姿を見ていた使徒ペテロですから、この地上から天を目指す教えを解いて
いるように思います。
ペテロ第二の手紙1章5節〜8節に
「だからこそ、あなたがたはあらゆる熱意を傾けて、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」
信仰にはじまり、最後は愛、至高の愛にいたる。低いところから高いところに迫り上がるのがペテロの教え。これに対してパウロの教えは、御霊の実は、愛を筆頭に、その愛をプリズムに通して分光するようにして、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、そして殿に自制が座る。

完全をめざすのですから、当然全力を尽くします。しかし、パウロは「達し得たところを基準にし」と勧めています。人間には限界があるのも事実です。母は、所帯を構えて別居した私によく言いました。「体を休めなよ、体は資本だから」平日は会社勤務、それも夜まで続く仕事。日曜日は、教会に行き礼拝をささげ、午後は奉仕。たまの休日に子供を連れて父母を訪ねた時に、そう言われました。体力旺盛、仕事も好きでしたから、自分では疲労感はありませんでしたが、母は私が心身共に疲れているのを見透かしていたのです。心身ともに御霊によって日々リフレッシュされませんと、疲れが溜まり、そのうちミスを冒します。

  3.    神の賞与を目指す 未来
16節「ただし、私たちは到達したところを基準にして進むべきです。」
私たちは、神から授かったものを活かして、成長し、成熟してきたものを基準にしたら良いということです。「進むべきです」とありますから、到達したところに停滞するのではなく、到達したところから更に進むよう勧めています。教会は、一時的な現状維持は許されるでしょうが、ずっと現状維持では主はお喜びにならない。いな、ペンテコス以来、教会は、エルサレム、ユダヤ、サマリヤ、地の果てまで、後ろのものを忘れ、つまり過去の伝道成果を忘れ、前のものに向かって、つまり未開発のまだ主イエス様を知らない人々、福音を聞いたことのない魂に伝道、宣教してきたのです。今もこの流れは続いていきます。
教会で洗礼式を行うのを思いだして下さい。一人の魂がイエス・キリストを信じて、イエス様を主として受け入れる信仰告白をして、御言葉が与えられて、過去の罪の生涯を忘れて前に向かっていく、すなわち未来に向かって信仰の歩みを始める決心をした。そして、その信仰告白の証しとして洗礼に与る、その時に私たちは喜びの声を上げて賛美をしますね。私たちには知らされていませんけれどもその時に天では大祝宴会が催されていたのです。
「キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。」14節にある通り、パウロは賞、すなわち死者の中からの復活、完全なものにされて、永遠の命に入る、天の御国に入国する喜びに満ちて走っていたのです。
ガラテヤの人々には、「人に喜ばれようとしているのか、それとも神に喜ばれようとしているのか」ガラテヤ1章10節 とパウロは言っています。神に向かっているかどうか。主イエス様は、もっとすごい言い方で、こう言われました。「バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪いとっています。」マタイ11章12節

私の好きな映画に、七人の侍があります。黒澤明監督の作品です。同じ黒澤だからというわけではありません。いくたの名シーンがありますが、野武士の恰好の餌食になりそうな状況の中で、村の農民たちは、長老に励まされて、お侍いを雇って村を守ってもらおうとします。やっとのことで七人のお侍を雇い、村に連れてくるシーンがあります。ところが、迎え入れる村人たちはひとりも、歓迎しなかった。娘たちが冒されるのではないか、と疑念を抱き、村の農民たちは、だれひとりとして、七人の侍たちを歓迎しなかった。七人の侍を雇い連れてきた使者は、お侍い七人を、しかたなく村の長老の家に赴く。
娘たちを心配している一農民が「お侍さんがの武士から守ってくれるのはいいが、娘が心配でな。」
長老は言います、「首が飛ぶちゅう時、髭の心配してどうするだ。」
そのような押し問答をしている最中、野武士襲来を告げる拍子木が鳴ります。
カンカンカンカン、野武士襲来を告げる木槌の音に、村人はあわてて一斉に家屋から、飛び出し
「お侍様、お侍様、助けて、助けて」、志村喬演ずる侍リーダー勘兵衛にすがりつく。
「静まれ、野武士を見た者はおるか」
村の農民は、はたと気がつき、だれも野武士を見た者はいない。
「では、拍子木を打ったものはだれか」
そこで登場するのが、三船敏郎演ずる、菊千代。彼は農民出身の荒武者。
「おまえら、俺たちが村に入って来た時、どうした。拍子木をうったら、『お侍様、お侍様』」
雇い入れた侍は皆、清廉潔白。それを知り村人たちは、侍たちに信を置き、七人のお侍の指揮のもと農民軍団を結成し、野武士との戦いに臨み、勝利します。
「勝ったのは、農民だ、我々侍ではない。」
明るい、農民たちの田植え唄で、映画「七人の侍」は終わります。
 拍子木は、警告であり、また福音の知らせでもあります。

完全目指して進む、主イエス様がやがて来られる、いな明日来られてもいいように、もっと言えば、明日来られてもいいように、私たちは常に完全を目指してその日その日を過ごしていく、「全き人はそのように考えるべきです」、と聖書は言います。かつパウロは、そのような考えとは異なる考え方もあるので、「そのことも神があなたがたに明らかにしてくださいます。」15節bと記したのです。
再臨信仰が曖昧な不完全な方々は、おおむね伝道不熱心です。何故か、自己中心主義者だからです。神を神としない人、神を神とはしても、困ったときだけ「神様、助けて」と祈り、困らない時は、「神様ちょっとあっちへ行ってて、自分のしたいことするから」みたいな不完全な人。

「私たちは到達したところを基準にして進むべきです」同16節
達し得たところに従って、救われた時から今までに得た神の祝福に従って、神のなさることは皆祝福です。必ずしも私たちの五感に心地よいものではないかも知れません。個人にとっても教会にとっても、神のなさることはすべてが心地よいものではないかもしれませんが、神のなさることは、皆祝福です。今は父なる神と御子主イエス様は天におられ、この地上では聖霊の一人舞台です。御霊が働いておられる。
しかしそのうち、主イエス様ご自身が必ず来られます。救い主が私たちを天に引き上げて下さる、新天新地と聖書には書いてある、御国の到来です。いわゆる天国が天からこの地上にやってくる。

そのためにはお一人お一人が祈る必要があります。ノアとその家族が大洪水から守られたように。再臨のときには水によるのではなく火炎による裁きがなされます。だから完全を目指す喜びが必要なのです。消防士が火災現場に行く時に耐火装備をするように、火炎による裁きですから、私たちも霊的な耐火装備を備えなければなりません。祈りです、義の衣です。そしてノアが方舟を作って大洪水から招かれたように、私たちも教会という箱舟に乗り込み、火炎の裁きから逃れる箱舟を作る必要があります。そしてその方舟を私たちは神に捧げるのです、つまり神の御旨のままに教会を立ち上げていくのです。現代の教会は聖霊に導かれなければ、再臨の日に耐えられる教会とはならないでしょう。御霊が命ずるままに私たちは完全目指して進み行くのでなければ本物の教会にはならないと思います。そして御霊の働きに従ってです。私たちの中にはまだ走ることができない方々もおられます。また私たちの中にはもう歩くこともできない弱い方々もおられる。達したところに従ってでいいのです。着実に歩んでいけるこれからもずっと歩んでいけると言う壮年の方々だけでは無いのです。
ここで祈り、ここに集い、ここに捧げる、そのようにおっしゃる私たちの主イエスキリストに連なる教会に必ず御霊が働き、教会というノアの方舟に乗り込む神の家族が、万物の終わりの日に必ず救いあげられるのです。祈りを妨げようとする輩も働きます。ここに集うとするものを阻む悪の勢力もあります。捧げることを悪とするような者たちもいます。でもね安心してください。私たちの弱い群を必ず主が守ってくださいます。
ただし、私たちは到達したところを基準にして進むべきです。新改訳2017
ただ、わたしたちは、達しえたところに従って進むべきである。口語訳
いずれにせよ、私たちは到達したところに基づいて進みましょう。共同訳

完全目指して、倦まず、たゆまず、喜んで、進んで行きましょう。
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井上喜久美牧師のお証し
 2024年1月14日に礼拝説教の中で語られましたお証しを以下の通り記ます。

小さな私の上に主がなしてくださって恵みをお証できますことを心から感謝いたします。

第一コリント15章10節
「しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。」
と在りますように、今日ここにあること自体がただ神様の恵み以外何ものでもないことを覚えます。この主の御業を3つに分けてお分かちしたいと思います。

第一はわたしが救われ主の召しに与るまでのこと
第2は主が教会を建て上げて下さったこと
第3は子育ての中で主がなしてくださったこと

第一のわたしが救われ主の召しに与るまでのことについて
 私の出身は、名古屋の近くの一宮です。抹茶をよくいただく町で、和菓子の製造をする店でした。何人かの職人さん、店員さんが働く、わりと豊かな商売の家に育ちました。そんな中で、父が女店員さんと不倫に陥り、母が苦しんで父との言い争いが絶えない毎日でした。そのような苦しみの中で母はいろいろな宗教に救いを求めていました。神様はそんな中で、一人のクリスチャンを送ってくださいました。この方は以前、私の店で働いていた方で、クリスチャンになった喜びを証してくださったのです。母はもともと宗教心のある人で、私が小さい時から体が弱く、あちこちに連れてご祈祷をしてもらったり、商売のために京都の伏見稲荷に毎月のように出かけたりした母でしたが、すぐには教会には行きませんでした。
しかし、いよいよ母が行きづまって父と女の人に任せて家を出ようと荷物を持って一宮の町を泣きながら歩いたそうです。その時、以前聞いた教会の事を思い出して教会を訪ねたのです。そこで、牧師夫人が歌って下さった「慈しみ深き友なるイエスは、我らの弱気を知りて憐れむ・・・・」全てをわかってくださるイエス様の愛を牧師夫人から感じ、ただただ涙が溢れ祈っていただき、その日の夜遅く家に帰ってきました。それから、母の求道が始まり、毎朝聖書を読み、涙を流しながら祈る母の姿を見るようになりました。日曜日の礼拝、木曜日の祈祷会と熱心に教会に行くようになり、父との言い争いもなくなりました。そして、母は自分の罪を悔い改め、イエス様の十字架の救いを受け入れ洗礼を受けたのです。私が中学2年生の時でした。
母は私と妹を教会学校に連れて行きました。私は当時、反抗期でもあり両親の姿や父の不倫に対しての憤りに荒れていたので、きっと「どうして親に反抗するのですか?」と牧師先生から、きつく言われるだろうと思っていました。しかし、教会学校に行くと「よく来ましたねえ。」と温かく迎えてくださり、ほっとする思いでした。普通の家の田の字の畳の教会に40人ぐらいの子ども達がきており、私が想像していた教会堂とは全く違っていました。
この日から私の教会生活が始まりました。毎週、教会学校の先生から聞く聖書の話と先生の証から、いままで母に連れられて行ったところとは全く違って、天地を創造して下さった神様、私たちの罪のために十字架にかかり、復活された生きた神様は、私たちの祈りに答えてくださることなど、新鮮でした。私と妹と二人で毎週教会学校に楽しみに行くようになりました。
やがて、高校生になり、大人の礼拝、伝道集会、祈祷会にも出席するようになりました。毎週の伝道集会で、イエス様を信じた方の証があり、死の恐れから開放されたこと、今晩、死んでも天国に行くことのできる確信に満ちた喜びを聞きました。
私は、もし、今晩伝道集会の帰りに交通事故で死ぬようなことがあったらどうしよう?
「死ぬことは怖い」「死んだらどうなるんだろう?」天国に行くことができる確信がありませんでした。「罪を悔い改めてイエス様の十字架を私の罪の身代わりであること、私の救い主であることを信じなさい」と言われても、私には罪はないと自分の罪について分かりませんでした。
ある伝道集会の時、いつも聞いているイエス様の十字架のお話でしたが「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。」「もし、罪を犯してはいないというなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」
み言葉が私のうちに迫ってきました。
 私は家庭を不幸にしたのは父が悪い、母のせい、私は何も罪を犯してはいない、罪はないと思っていました。しかし、それは自分を欺いている者だと聖霊が示して下さいました。それは同時に幼い時に犯した罪を思い起こさせるものでした。子どもの頃ままごと遊びをしていて友達のおもちゃが欲しくて黙って自分の中に入れて持って帰ってきてしまったこと、家の店のお金を黙って盗んで紙芝居を見に行ったこと、ノートを一冊買って一冊万引きしたこと、など次々思い出させてくださり、父が悪い、母が悪いのではなく、私を愛して下さっている神様を信じないことこそ最大の罪であること、私は自分の罪深さに震えました。
「もし私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての罪から私たちをきよめて下さいます。」(第一ヨハネ1:8から10)
「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(第一ヨハネ1:8)
私は涙とともにイエス様の前に罪を言い表し、イエス様の十字架の赦しを自分の罪の贖いのためであることを受け入れました。そして、その晩、帰って父と母に自分の今までの罪をお詫びしました。
「しかし、彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。」(ヨハネ1:12)
「こんなに罪深い私を愛し、私のために十字架にかかってまで神の子としてくださった」と赦されたことの喜びを心から感謝しました。
 しかし、私の環境は少しも変わってはいませんでした。父は女の人に家を借りてそこに行き来し、3人の子どもまで生まれました。集金したお金を持って行くという生活に商売も行き詰まりを覚えていました。私が高校3年の時にはとうとう父は母と私たちを捨てて、女の人と一緒に住むことになってしまったのです。母の苦しみはどれほどだっただろうと思います。母は私たち4人と一緒に死を覚悟したようです。しかし、
「十字架によってふたつのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。」(エペソ3:16)
「イエス様によって神様と和解させてくださった自分。私と4人の子ども達は神様の子どもとしてまな板の鯉です。煮ても焼いても神様の思うようにしてください。」
父を憎み、女の人を憎む敵意の罪を悔い改め主にすべてを委ねます。と祈ったと聞いています。
 私は高校を卒業し、大学は諦め会社に就職し、3人の兄弟のために母と一緒に祈りつつ、商売と教会生活に励みました。日曜日は店を休み家族で礼拝し、伝道集会に出席し、夜帰ってからお茶をしながら一日の恵みを分かち合う本当に感謝な幸せな毎日でした。そんな時に主は私に語られました。
時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、私が示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。」創世記12:1~2
 この主のみ声を聞き、主の召命だと感じました。しかし、この当時は献身することが出来る状態ではありませんでした。妹は就職したばかりで、その下の妹は高校生、弟は中学生、私は会社に勤めながら商売も母を助けながら切り盛りしていた時でとても私が家を出ることは難しい状態でした。
「主は、私たちのためにいのちを捨ててくださった。それによって、私たちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のために命を捨てるべきである。」第一ヨハネ3:16
 イエス様がいのちを捨ててまで私を愛して下さったことを覚える時、この愛をまだ聞いたことのない人々に、特に教会のない町々村々に伝えるように迫りを覚えました。牧師先生にこのことをお話し、祈っていただきました。
不思議なことにこのことの次の日、ずっと音沙汰のなかった父が教会を訪れたのです。女の人に捨てられた父は教会の信徒の方の家で住み込んで働き始め、毎日家庭礼拝に出席し、教会の各集会に出るようになったのです。父が家を出て7年ぶりのことでした。しかし、このことがきっかけとなり父が私に代わって家に帰ることになり、私は献身し、献身者の生涯の道を主が開いてくださいました。

 2番目の主が教会を建て上げて下さったこと
3年間の神学校の学びと訓練の後、私は九州の日田に結婚して遣わされました。
ボソフ宣教師、森上先生が開拓を始められた開拓教会でした。数人の信徒の方との借家を借りての礼拝でした。母教会の開拓をされた牧師先生から与えられた
「わが臨在汝とともに行くべし」
「死にいたるまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう」黙示録2:10
ともに働いて下さる主が先立ってくださり、次々と救われる方が与えられ、我が家も毎年次々子どもが与えられ、体の弱かった私はすっかり元気な者とされていました。
田舎の伝道において大切な事は、クリスチャンホームの子どもをしっかり育てること。10年経てば10歳、15年経てば15歳立派に教会を支えることができる。それを期待してみんなで子どもを育てようと礼拝、伝道集会、祈祷会と子どもも一緒に連れてくる生活を送っていました。
 礼拝の時は賛美とお祈りまでは子どもも一緒に参加し、説教になったら近くの亀山公園に子ども達は遊びに行き、礼拝の終わりごろ帰ってきて頌栄祝祷を受けるというものでした。食事をした後はまた亀山公園に遊びに行き、夕方子ども達をそれぞれの家に届ける。夜の伝道集会にまた連れてくる。伝道集会中、あちこちで行き倒れになって眠ってしまう子もいるという教会が神の家族としてお互いに助け合い、励まし合い、素晴らしい恵みを主が与えて下さいました。
もちろん、青年の結婚、偶像との戦い、家族の反対、当時は耶蘇教と言われ、猛反対を受けることなど多くの戦いもありました。主が先立ってその戦いに勝利をさせてくださいました。13年の日田での伝道は本当にすばらしいものでした。クリスチャンホームの子ども達も20人近くなり、大人も20人近くなり会堂が狭く、会堂を建てようと祈りつつ始めた時、主が突然、佐伯への転任を命じられたのです。私たちは日田で生涯を過ごそうと思っていたので大きなショックでした。そのショックは7人目の子どもを宿していた私の体に9ヶ月で死産という痛みを経験させてくださいました。これも又何回も死産を経験した姉妹の痛みを理解するために与えられた主のご計画の中にあったのです。
 佐伯教会に転任になったのですが、前任の牧師先生は佐伯教会を退かなければならないほどの混乱した教会でした。毎日毎日信徒の方が来られて痛みを訴えられ、ただただ聞くこと、祈ることしか出来ませんでした。そのような毎日でしたので、この困難を乗り越えるためには赤ちゃんを育てられる状態ではありませんでした。今考えて見ると主のご配慮でした。けれども1年半後に主は子どもをもう一人与えて下さいました。混乱した教会も主がキリストの体として機能する教会になるのに7年かかりました。クリスチャンホームの子どもが成長し、その子どもから更にその子どもに信仰が受け継がれ親子3代、4代の子どもへと受け継がれています。

「祈りと宣教に励む教会」
「地域に開かれた活動的な教会」
「お互い主にある者として、主と教会と他者を愛し仕える教会」
との標語のもとに現在まで主が教会を建て上げて下さいました。主の聖名を崇めます。現在は、佐伯市の周辺の町々村々からも救われた方が起こされて、中には車で40分かけて礼拝に来られています。定期の集会である礼拝、祈祷会、教会学校をはじめ、様々な集まりチャレンジクッキング、書道教室、年長者の集い、子どものためにハレルヤキッズ、若い夫婦の学び、家庭集会など、子どもからお年寄りまであらゆる層の方々の必要に応えて働きが進められています。

3.子育ての中で主がなしてくださったこと
「信仰が継承されていく」これは個人にとっても、教会にとってもとても重要なことです。現在、教会の多くが年配者の方々で将来に希望が持てない状況です。牧師も信徒も高齢になり、やがて教会が合併、閉鎖せざるを得ないという現状の中で次世代の子どもと青年への伝道は急務です。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」
主の約束を信じ、子どもへこの信仰を受け継がせていきたい。
お腹にいたときから、「主のお役に立つ子どもとして生涯を導いてください。」と祈ってきました。子どもと毎晩寝る時にお祈りするのもいつも「主のお役に立つ子どもとしてください。」と祈り続けました。夕食のあとの家庭礼拝も毎日は出来ない時もありましたが、一緒に聖書を読み、一人ずつ祈りました。嫌がる時もありましたが何とか工夫をして、時にはおやつを出したり、楽しい時にしようと努力したことを覚えています。6人の年子と佐伯に来てから与えられた7人の子どもの子育ては大変でした。
日田の開拓伝道の時は経済的にも大変なときでした。子どもを保育園に預けて働きを進めていましたので、時には、お迎えが遅くなって6時までに迎えに行くことができず、不安な気持ちでお迎えを待つ子もしばしばでした。中学生の反抗期を迎えた時は、年子でしたので毎年反抗期の子どもと向き合うことになります。
親に反抗する子ども、学校の規則に反抗する子ども等みんな反抗期の現れ方は違っていました。小さい時から聖書、イエス様、十字架のことも知識として知ってはいますが、自分の罪については十分わからない子ども達でしたけれども、この時がイエス様の救いを経験するチャンスでした。
長男は、学校では模範的な生徒でした。しかし、家では反対で「お母さんは僕たちよりも信徒の方が大切でしょ?僕たちなんか愛してないでしょ?ぼくがどんなにさびしい思いをしたかお母さんにはわからないでしょ。もう、僕はこんな家にはおれない。出て行く。」と言ってカバンと1万円少々入った貯金通帳を持って家を出て行こうとしたことがあります。寂しがり屋の長男は、私たちが信徒の家庭を訪問する等の理由で帰りが遅くなると、「お父さんとお母さんはもしかしたら、交通事故にあったかもしれない」と心配して泣き出すことがあったからです。
私は長男に、「そんなさびしい思いをさせてごめんね。お母さんは、信徒の方も大切だけど、あなたたちも神様から預かった大切な子供だよ。あなたが今日までどれだけ多く方に祈られてきたか忘れないでね。出て行く前にお父さんに今日までいろいろお世話になりました。とお礼を言ってからにしてね。」
「わかった」と長男は主人のところに行きました。主人は長男を個人伝道したのです。夕方になって、出て行ったかなと部屋に行くと、真っ暗な部屋に座っていました。そして、私を見るなり涙を流して「ごめんなさい。僕は今までイエス様の十字架が僕のためだったことを信じてなかったよ。僕は本当にわがままで心配をかけてごめんなさい。」イエス様の救いを経験した日です。
 一人一人反抗の形は違っていましたが、自分のうちにある罪を示され、十字架の赦しを経験させていただきました。
大学進学、将来のことも「イエス様のお役に立つことを」と祈って奨学金を受けながら新聞奨学生として苦労しながら大学を卒業しました。
 長女は現在、アメリカのサンディエゴで牧師夫人、次女は秦野で牧師夫人、長男は韓国・中国北京で宣教師をした後、現在は大阪オンヌリ教会の協力牧師・宣教師として主の働きの一端に与っています。三女は幼稚園の教師、次男は絵描きとして、四女はドイツに留学後、ドイツ平和村での働きをした後、小学校の教師として子どものために愛し仕えていましたが、3年前突然主の御許に召されました。その教え子が教会に導かれるようになりました。五女は韓国の大学を卒業したあと、若者の就職をサポート、支援する仕事を通して主と教会と人々に仕える働きに導いて下さいました。
 母がイエス様を信じた結果、父と子ども達4人が信仰を持ち、それぞれの伴侶もクリスチャン、その子ども達もクリスチャン、その子ども達も教会に導かれ、私の孫も10人のうち6人が洗礼を受け教会に仕えています。残る孫2人もイエス様を信じる恵みに預かっています。
「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう」創世記12:2
御言葉の約束を実現して下さった主の恵みを褒め称え、栄光を主にお返しいたします。この度、私は2022年3月末をもって引退をし、第一線を退きます。夫の宗樹師は既に引退をしましたが、私が主任牧師として任命を受けておりました。しかし実質的には夫が佐伯福音キリスト教会並びに別府キリスト教会の主任牧師として伝道、牧会を続けてきました。引退の時期が迫ってきた1年前から引退後の住まいをどこにするのか祈ってきました。佐伯福音キリスト教会のお隣の家が空き家になっており、教会堂の隣でもあり一番良いのではと考えた時期もありました。しかし、4月から新たに任命される先生のことを考えると、隣に引退牧師がいるという事はふさわしくない、そう考え、どこか良い物件はないか祈り不動産物件を探しました。しかし、なかなか良い物件が見つからず、「どうか神様、引退後の生活にふさわしい物件を与えてください」と祈りました。神様はその祈りにすぐには答えてはくださいませんでしたが、11月に入ってから堅田の地で物件を見つけることができました。
 そして、次男がその物件の購入を決めたのですが、私たちのことを祈り、心にかけてくれた子どもたちの愛と、祈りに応えてくださった主に感謝しています。
「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日が長く続くようにするためである。」出エジプト記20章12節
 新しい住まいは敷地約700平米(二百坪)、佐伯福音キリスト教会から車で約10分の距離に位置し、前の所有者が建てた平屋の住宅を、主が与えてくださいました。同敷地内に次男のアトリエとなる作業場も増築することができました。
「汝、死に至るまで忠実であれ」ヨハネ黙示録2章10節
新しい地で今後、どのようなことを主が成そうとされているか、残りの人生も主を愛し、失われていく方々の救いのために主の証し人として従っていきたいと願っています。

(以上は2022年3月に集録したお証しですが、去る1月14日の主日礼拝に同様のお証しがなされました。)

 説教「聖霊に頼る喜び」
  2024年2月4日 黒澤俊人勧士

聖書箇所  ピリピ書3章1〜11節、Ⅰテサロニケ5章16~18節
中心聖句 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。Ⅰテサロニケ5章16~18節

「私は、また同じことをいくつか書きますが、これは私にとって面倒なことではなく、あなた方の安全のためにもなります。犬どもに気をつけなさい。悪い働き人たちに気をつけなさい。肉体だけの割礼の者に気をつけなさい。神の御霊によって礼拝し、キリスト、イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです。ただし、私には、肉においても頼れるところがあります。他のだれかが肉に頼れると思うなら、私はそれ以上です。
私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしささゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえに全てを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」ピリピ書3章1〜11節

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことを感謝しなさい。」
なかなかできないことですが、パウロはこのところで敷いて喜ぶことを勧めています。御霊が働く条件なこのところに示されているように思います。喜ぶ人に御霊が働きます。絶えず祈っている人に御霊が働きます。すべてのことを感謝する人に御霊が働きます。

今日は、別大マラソン、県を挙げて応援しています。呼応するように、昨日は、別府市立南小学校のマラソン大会があり、この者も応援に行ってまいりました。張り切って応援したせいか、今日は声がかれていてあまり良くききとれないかもしれません、お許しください。

 1 意図して喜ぶ
1節には、「最後に、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。」喜びなさい、とパウロ師は勧めています。意識して喜ぶ、心の持ち方を喜びに向ける、しいて向ける。心を喜ぶことを探す、喜べないことに向けるのではなく、喜べることに向ける。良いものを喜びましょう。主を喜ぶことはあなたがたの力である。

人間の感性に感じて喜ぶのは、肉的な喜びであり、それはよほどのひねくれ者でないなら、誰でもする喜びである。肉的な喜びに対して霊的な喜びは、信仰がなければなし得ない。神が与えてくださった試練の中でも霊的な喜びがあるか、自分の意志に反して降りかかる苦難の中でも喜ぶことが出来るか、ということ。パウロは、すべてを喜びなさい、とも記しています。悪いことは避け、悪いことを喜ぶなら悪魔の思いです。
「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」ローマ書12章15節
喜べないことに遭遇したら、泣いて悲しめばいいのです。
自分が撒いたことが元になり苦境に陥るのは、自業自得というものであって、神の試練ではない。
「あなた方の安全のためにもなります。」とあり喜ぶことは、最良の安全策となります。喜ぶことは聖霊の実の二番目に挙げられています。

私がこの別府キリスト教会に赴任して参りました2018年3月末、喜んで来ただろうか、というと喜ぶというより、どんな教会なのかワクワクしていたように思います。初めてこの別府キリスト教会のこの会堂に踏み入れた時に三人の姉妹が喜んで迎えてくださいました。成田から車に積み込んできた身の回り品を二階のお部屋に運びこんだ後、三人の姉妹から、色々と説明を受け、またお茶を入れてくれたりして温かいおもてなしを受けました。
 一姉妹から、定例の祈祷会が持たれなくなって久しいとのお話があったときに、教会としてはこれはいけないと思いました。
着任して次の木曜日に役員の方々には集まってもらい、その集会を祈祷会にしませんかと提案し、皆さんのご了解を得て毎週木曜日に定例の祈祷会をすることが始まりました。定例の祈祷会が再開したことによって御霊が働く、教会として「絶えず祈りなさい」の要件が成り立ったように思います。
すべてのことを感謝する人に御霊が働くと申し上げました。世の中ではパンデミックと言われるコロナの災いがこの教会も襲いました。この時に私に与えられた御言葉がまさにこの全てを感謝しなさいと御言葉でした。

 2 肉に頼る悪
2節には、警戒するべき人種を三つ挙げています。
第一に、あの犬ども、つまり動物のように己れの欲望に生きる者たち。
第二に、悪い働きをする者たち、主イエス様のためにするのではない輩。
第三に、肉に割礼の傷をつけている者たち、即ち外側だけを清める者、あるいは心を清めようとしない者、本心から悔い改めていない者

3節には「神の御霊によって礼拝し」 礼拝は聖霊をもってなす。
「キリスト・イエスを誇り」 誇るのはキリストイエスのみ
「肉を頼みとしない」 つまり神以外のものには頼らない。霊に頼る。霊に頼るとは、まず肉に頼らないと言うことです。頼るべき霊とはに聖霊の霊です、御霊によって清められた私たちの霊に頼ってもいいでしょう。御霊の働きを顕す霊に頼るということです。御霊の働きはなんですかガラテヤ書に書いてあります。ガラテア5章22~23節
「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」 新改訳2017
「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」 口語訳      
「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」 共同訳
(この中に『服従』はありません。父なる神は、服従を求められるでしょう。また主イエス様は「従ってきなさい」と言われるでしょう。しかし御霊は「わたしに服従しなさい」とはおっしゃいません。)
しいて、私たちの思考をこれら良いものに向ける、決して悪いことに向かわないように。
悪魔は巧妙です。悪いことなのに良いもののように見せかける。
主イエス様は、こう言われます。「あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。」マタイ5章37節
これを実現するためには、私たち正常な感性に照らし、悪いものは避け、私たちの感性に心地よいものを受け止める。
例えば、悪臭がしたら、何か臭いものが近くにある、取り除くべく、悪臭の元を突き止め直ぐにとり除く。
匂いばかりか、目で見て醜いものは見ないように、目に心地よい姿、形、光景を焼き付きる。
耳に入ってくる、心地よい音、音楽を好み、騒音などうるさい音は、耳を塞ぐ。触覚もしかり、

心については、言葉に留意が必要ですね。「塩で味付けられた優しい言葉」コロサイ4章6節 を身につけられますよう。御霊の実を感じさせる、良い言葉は、相手に良い印象をもたらします。

霊も同じように、霊的に良いもの、つまり神からの祝福、恵みに私たちの霊を向ける、決して悪の霊、肉の思いを優先させてはなりません。

肉とは何か、神以外のもの、人間的なものをさします。現実に見えるもの、触って確かめることができるものを指します。肉に対応するのは霊であり、現実に見えないもの、触ることがてきないものを指します。肉そのものは、神が造られたものであれば、良いものです。神は肉を用いることがあります。パウロも肉の価値あるものを 5〜6節で列挙しています。
 八日目に割礼を受けた者、つまり正規の入会式を経て、
 イスラエルの民族に属した、イスラエルの一員。会社で言えば正社員。途中入社の社員ではないぞみたいな感じです。
 ヘブル人の中のヘブル人 生粋のヘブル人、人種としては純粋のヘブル人。
 
 3 キリストの復活
そして8節にはそれどころか、「私の主であるキリスト・イエスを知っていることの素晴らしさのゆえに、私が全てを損と思っています。」このすべというのは、パウロ自身に与えられた人間的な能力、人間的な知識を指しているように思います。そしてそれを塵芥だとパウロは考えていたのです。
肉は、その内すたれる。しかし、キリストは永遠です。それは死んだイエスが蘇って、復活された。キリストにある者は、その復活の命に与る。神の愛は、大き過ぎて、人には一部しか分からない。悪魔でさえ神の大きな愛がわからない。

パウロ師はこの大きな神の愛を、実体験してしりました。すなわちパウロ師は生きている間に天上の体験をなされた方です。Ⅱコリント12章1~5節を朗読します。
「私は誇らずにはいられません。誇っても無益ですが、主の幻と啓示の話に入りましょう。
私はキリストにある一人の人を知っています。この人は十四年前に、第三の天にまで引き上げられました。肉体のままであったのか、私は知りません。肉体を離れてであったのか、それも知りません。神がご存じです。私はこのような人を知っています。肉体のままであったか、肉体を離れてであったか、私は知りません。神がご存じです。彼はパラダイスに引き上げられて、言い表すこともできない、人間が語ることを許されていないことばを聞きました。」

今も昔も、神は、その御心を表すために、御霊を私たちに遣わしておってくださるのです。そして御霊は、さっきも申し上げました通り喜んでいる人に、絶えず祈る人にそしてすべてを感謝する人に働かれるのです。昔も今も、主は、あまねく全地を見渡して己に向かって心を全うする者のために力を顕されるのです。そして今は、今日のテキストで言われている通り10節に「私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、何とかして死者の中から復活に達したいのです。」と書き、ここにパウロの本心が表れているように思います。11節にあるようにパウロの本心は「死者の中からの復活」です。
そのためには
  キリストの復活の力を知ること
  次にキリストが現れた苦難にも預かること
  そしてキリストの手と同じ状態になること
この三つのプロセスを辿らない限りは死者の中での復活は達しないと教えているのです。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。」Ⅰテサロニケ5章16~18節
世の中の人はこう言います。『いつも喜んでいなさい、と言われたって、喜べないことが多くあるよ。神様はそれ
をゆるしてくださるよ。絶えず祈れ、なんて言われたってね、そんなことできっこないよ。時たま祈る、それも有りだろうよ。すべてのことを感謝しろだって、そんなのできっこないよ。』
その通りです。人間にはできないのです。しかし御霊にはそれをなさしめる力を私たちにくださる。だから聖霊を求めようではありませんか。今日のこのテキストの所でもパウロが言っています。「自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。」パウロ師は御霊に感じて、「自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。」と記したのです。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。」
なかなかすぐにはできないことかもしれません。もうしておられる方は幸いです。できていない、と思われた方は、どうでしょう。今日のテキストにありました、「主に在って喜びなさい」つまり聖霊に頼り、喜べることを探し出して、見つけたら喜ぶ、そうなさいますようお勧めします。


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「キリストに仕える喜び」
  2024年1月7日 黒澤俊人勧士

聖書箇所  ピリピ書2章19節〜30節

 私は、学生を終えて、社会人になる時、クリスチャンでしたから、神に祈り、どの会社にするか、いくつかの大企業の就職案内を見、またそれらの会社に関する企業情報を集め、実際にこれぞという会社の就職説明会にも行き、結局、大学の経済学部卒業にも関わらず、竹中工務店という建築元請会社、しかも株式非上場の会社に正社員として入社しました。今から思い返しますと、あの頃、自分自身がよくわかっていなかった、自分のことなのに自分がよくわかっていなかった。当然のことながら、これから入る会社のこともよくわかっていませんでした。しかし、入社してから定年まで、竹中工務店で働いた、働くことが出来たのは、やはり神の御旨があったからとしか言いようがありません。竹中工務店に仕えることができましたし、竹中工務店もまた私に金だけではない大きな報酬を下さったことでした。竹中工務店は、建築の元請け会社です。発注者を建築主と呼び、建築主に仕える会社です。故竹中練一社長が、社員に向かって「あなたがた社員は定年があるからいい。しかし私には定年がない。」と言われ、私はこの歳になってやっと社長の言われた意味がわかりました。竹中工務店に勤めて、仕えるということがどうゆうことかを身をもって学びました。

前回まで2章18節までは、このピリピ書が喜びの書簡と言われるほどに、喜びについて内面的な事柄が書かれていましたが、今日の箇所は、現実的な事柄、具体的には愛弟子のテモテと、同労者エパフロデトをピリピに遣わすことが記されています。愛弟子のテモテと、ピリピから派遣されて、パウロに仕えているエパフロデト、この二人をピリピに送るに当たり、そのことわり書きが記されているところです。

19節には、「私は早くテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって望んでいます。あなたがたのことを知って、励ましを受けるためです。」とずはり、パウロの要望をまず記しています。パウロ伝道団には複数の宣教師がいた中にあって、ピリピに派遣するのはテモテなのです、とピリピの人たちに内示しています。その理由として
20節には、「テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、だれもいません。」とあり、愛弟子たるテモテはパウロと同じ心意気でピリピ教会に心配りをしている人物だからなのだと言っています。愛弟子テモテを送るのは、ピリピ教会が喜んでいる様子を知り、パウロが「励ましをうけるためです」とも言い、パウロはピリピの人々が『テモテ派遣を喜んでくれるよね、喜んでくれればわたし自身も喜ぶ、そしてその喜びに自分も励まされる』、そのようなと強い願望を示しているのです。パウロがこのテモテに書き送った手紙を読みますと、テモテという方は、内向的で、ひ弱な性格であったようです。パウロのように大胆に語るような人物ではなかったようです。しかし、テモテは、師匠たるパウロの薫陶、訓練を受けたのでしょう、「親身になって」(新改訳2017)、「練達ぶり」(口語訳)、「確かな人物」(共同訳)と23節にあるように、テモテは御霊の実を結ぶ優れた宣教師、今日で言う牧師になっていました。パウロは、愛弟子テモテが、パウロと同様にピリピ教会を心底愛し、何かまずいことはないかと心配している。心配すると言うより、心を傾けている。絶えずピリピ教会のために祈っている、ことを知っていました。
22節を見ると、「しかし、テモテが適任であることは、あなたがたが知っています。子が父に仕えるように、テモテは私とともに福音のために奉仕してきました。」パウロがピリピ教会に遣わすのに最適な人物は、テモテをおいて他にない。テモテは、「子が父に仕えるように」とあるように、実の息子のようにパウロ先生に仕えている、福音の奉仕者でした。
23~24節には「ですから、私のことがどうなるのか分かり次第、すぐに彼を送りたいと望んでいます。
また、私自身も近いうちに行けると、主にあって確信しています。」とあり
ローマの監獄に収監中のパウロには、この時判決がなされる前だったので、判決がでれば、すぐにテモテをピリピに送る、パウロはローマの裁判がなされ、無罪放免という結果になると予想していたのではないかと考えられます。無罪放免になれば、自分もまたピリピに行けるとパウロはピリピ行きを期待していたことが記しています。

25節からは、パウロに仕えていたエパフロデトを送り返す考えを表明しています。このエパフロデトという方は、パウロ先生がローマで収監され、そのお世話をする、あるいはパウロの秘書として、ピリピ教会が選抜し、ローマに赴任した人物でした。
 そこまでは良かったけれども、エパフロデトは、命をかけるようにして、パウロを支える大きな使命を果たそうとしたようです。彼は体力の限界を超えて奉仕をしたのでしょう。疲れが生じその疲れが体を蝕み、死ぬほどの病を負いました。大病を負いますといかなる使命、仕事はできません。パウロ先生の世話をする、その大切な使命を途中で果たせなくなったことが、母教会ピリピ教会の方々にも伝わって、彼は意気消沈していたのです。パウロは、他人を愛する前に自分自身を愛するということがどれほど大切かと言うことを教えるために、エパフロデトをピリピに送り返すことが最善であると御霊に感じて、このピリピ書をしたためたのではないかと思います。
パウロは役に立たなくなったエパフロデトを病のまま、送り返したのではないのです。パウロは、死ぬほどの病になってしまったエパフロデトを愛し、エパフロデトが全快するように神に祈り、果たしてそのパウロの祈りを神は聴いてくださり、全快したようです。私たちの教団が説く四重の福音のうち『神癒』の信仰をパウロはエパフロデトにさずけ、エパフロデトもまたパウロを通して授けられた癒しのわざを必要かつ十分に受けて、喜んでピリピに戻ることにしたのです。パウロはこの手紙をエパフロデトに託したのでしょう。

 前置きがながくなりましたが、この二人のピリピ派遣の記事から、三つのことを申し上げ、今日は「キリストに仕える喜び」をお伝えし、主なる神を礼拝したいと思います。

まず、私たち、クリスチャンは、神に愛され、神を愛する者たちであるということです。パウロは律法をよく学んでいましたから、律法の第一戒である「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」申命記6章5節を知っていました。しかし、頭でわかっていてもなかなか実際にはできないままでいました。実行できないばかりか、神を愛する者たちを迫害することさえした罪人でした。クリスチャンを迫害することが正義だと思い、意気揚々とダマスコに向かったその途上で、神のあわれみであるイエス・キリストの光に照らされ、神の愛を体験したことでした。キリストの贖いのわざによってのみ、神の愛を受けることができるのです。パウロは、神の愛が、キリストの贖いのわざが莫大な価値のあることをも知りました。3章8節で「わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。」口語訳 とまで言い切っています。
私たちクリスチャンが神を愛するのは、神の方がまず私たちを、クリスチャンになる前から、産まれる前から否、母の胎に宿る前から愛して下さった方だからです。神の愛は、表面は義ですが、裏地はあわれみです。人であるならば、それなりの正義ないし正義感はありますが、人間の義は神の義には到底及びません。神の義に照らせば、人間の義は比べ物にならないほどに稚拙なものであることを私たちは知っておく必要があるでしょう。神の義は、必ずあわれみに裏打ちされています。人間の義は、憎しみを醸し出すことが多い、または感情的な思いに沈んでしまう、変な正義感を人間は持っています。正しさだけを求め、あわれみが伴わない人間は、神の愛を受けることはありませんし、あわれみばかりで、正しさが伴わないのもまた神の愛ではないのです。

 次に、神の愛を受けて神に愛された者は、神を愛することをしはじめ、神が望んでおらることを欲します。律法の第二戒として、「あなたの隣り人を自分自身のように愛しなさい。私は主である。」レビ記19章18節bとあります。
神の要望として、自分自身を愛する、もちろん神の愛をもって、自分が自分自身を愛することが求められています。「私は主である。」と念を押すように定められています。私たちの神は、主です。天地万物を創造され、私たちをも創造された主です。また私たちを正しくかつあわれみをもって維持管理しようとしておられる、活きておられる神です。
今日の聖句にも21節に「みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません。」新改訳2017、口語訳でも「人は皆、キリストのことを求めていません、」となっています。しかし共同訳では「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。」と訳していて、パウロ宣教団の中でテモテ以外の者は、自分自身のことを思い、キリストを慮っていないというのです。
ここで、誤解してはいけないのは、自分のことを求めるのは悪だと解釈してはなりまん。前回申し上げましたが、2章4節には「自分のことだけでなく」とあるように、また2章12節には「自分の救いを達成するように」とも勧めていますので、自分のことを求めるのは、むしろ良いことなのです。
わたしは、もっと言いたい、自分自身のことがキチンとできないで、他者にキチンとせよと言ったら、それは偽善です。自分は天国に行かないのに、他者に天国を勧めるならば、おかしいことです。自分自身をキチンと愛してこそ、他者を愛することができるのです。

第三に、隣人を愛する戒めです。先程も申しあげましたが、第一と第二ができてからなすべき神の要望です。イエス様もこれを勧めておられます。注意したいのは、「自分自身のように」です。自分が神の愛でもって、自分を愛するように、自分の隣りに居る他者を愛するということです。
 パウロは、この戒めを「それぞれ、自分のことばかりでなく、ほかの人のことも顧みなさい。」ピリピ2章4節と言い表しています。この三番目のことと二番目のことをつなぐ御言葉として、テモテへの第一の手紙5章8節をあげることができます。「もしも親族、特に自分の家族の世話をしない人がいるなら、その人は信仰を否定しているのであって、不信者よりも劣っているのです。」

この三つは、私たちの主イエス様が望み、私たちに強く勧めておられることでもあります。父なる神は、「天においても地においても、すべての権威」を御子イエス様にお与えになられ、イエス様は私たちのために十字架の犠牲をなしとげられ、救いの道を切り開いて、神の支配である御国に招いておられます。今は、父なる神の右におられ、私たちのためにとりなしの祈りをしておられ、この地上では、キリストの霊、聖霊様が途切れることなくかつ熱心かつ謙虚に働いておられます。
 終わりに、キリストの愛がねんごろに示されている聖書の御言葉を朗読し、説教を終えます。
コリント人への第一の手紙13章1~13節
「たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。たとえ私が持っている物すべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。愛は決して絶えることはありません。預言ならばすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。私は、幼子であったときは、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせてみることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。こうゆうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」
 このキリストの愛を求めて祈ろうではありませんか。
このキリストの愛に感謝してささげようではありませんか。
このキリストの愛を抱いて、今年もキリストの御許に集おうではありませんか。
『祈り、ささげ、集う』こと、それが主に仕えることであり、
『祈り、ささげ、集う』ときに私たちは喜びに満たされます。
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2024年元旦礼拝説教「聖霊テレビに聴く新年」
   於:別府キリスト教会 黒澤俊人勧士

聖書箇所 創世記6章1〜12節
中心聖句 そこで、主は言われた。「わたしの霊は、人のうちに永久にとどまることはない。人は肉にすぎないからだ。だから、人の齢は百二十年にしよう。」同6節

昭和30年ころ、西暦で言うと1950年頃、私が小学校に入学前後、テレビジョンなるものが売り出された。私の父親は、新しもの好きで、節約を旨とする母親の意向を無視して、父は、電気店に行き、テレビジョンなる電気製品を買った。ご近所にはテレビなどない時代、父は自慢気に、「おれの家にはテレビがあるから見に来てくれ」とご近所に触れ回った。人付き合いの良い父、ご近所の方々が集まって来たのを覚えています。
今朗読して頂きました創世記6章の初めには、3節のところに、「わたしの霊」とありました。「わたしの霊」というのは神の霊です。新約聖書で言うならばこれは聖霊のことです。私たちの存在と言うのは、霊と心と体からなっています。
 この神の霊、聖霊は今、この地上におられて、霊ですから私たちの肉眼では見ることができませんが、私たちの霊がこのお方に心を向けるときに、聖霊の波長と私たちの波長が合い、聴くことができるのです。聖霊放送は24時間営業です。

あえて「聴く」と書きました。「聞く」のと「聴く」の違いわかりますか。
英語で言うと、listen とhearの違いです。
聞くhearは、音が耳に届いたこと、
聴くlistenは、音が頭の中まで届いたこと、かなと思います。
先程朗読していただきました聖書箇所、創世記6章を読んだときに、私が感じた事は、人間の健康寿命についてです。「わたしの霊は、人のうちに永久にとどまることはない。」、と神は言われました。当時の人々は、人間の自由意志だけを持って歩んでいたようです。自由意思とカッコ良く言いますが、つまりは自分勝手に生きていたということです。自分勝手に生きている人間たちの姿を見て「わたしの霊は、人のうちに永久にとどまることはない」と言われた。人間の自由意志のままにしていると、私たちを創造された神は、人間の賞味期限として120歳までにしようかなと言われたのではないかと受け取れます。つまり人間の寿命と言うのは120年と定めたようです。この後創世記は、ご存知の方も多いと思いますが、アブラハム、イサク、ヤコブ、父祖三代の物語が記されています。アブラハムは、175歳まで生きました。創世記25章7節 イサクは、180歳 創世記35章28節 ヤコブは、147歳 創世記47章28節 いずれも120歳超生きた人です。『あれ人間の寿命は120歳ではなかったか』と思われるでしょうか。神が人間の寿命を120歳と定めたのに彼らは120歳超生きている。どうしてでしょうか。それは寿命が伸びた分は、神の霊が長くとどまっていたからです。つまり人間の自由意志の通りに生きずに、聖霊の働きである自制の実を生かして、すなわち自由意志の通りに生きるのではなくして神の霊、聖霊によって生きるときに寿命は伸びる。神の霊の通りに生きる分だけ寿命が伸びる。しかも神の霊が心をまた体を支配するのであれば、ただ単に生きるだけではなくして、いわゆる健康寿命が保たれるということでもあります。
 ノアに至っては950歳です。なぜそんなに長生きできたからそれは神と共に歩んだからです。
算式にすると
人間の寿命=120+(A:神と共に歩んだ年月)―(B:自分勝手に生きた年月)
と現わすことが出来るように思います。自殺という自分勝手をすれば、同上算式のBが∞に近い数字となり、寿命はゼロになります。ノアはA-Bが830だったのでしょう。
さて、私たちはどうでしょうか。恵みとして与えられた120歳を伸ばしたいならば、神と共に歩む日々を積み重ねることが肝要ですし、自分勝手な日々は神の恵みの年月を減ずることになります。
今年の年頭に当たり、この算式が当てはまるかどうかも含めて、お考えくだされば幸いです。

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教「ヨセフのクリスマス」
  2023年12月24日 黒澤俊人勧士

聖書箇所  マタイによる福音書1章18〜25節

中心聖句  ヨセフは眠りからさめた後に、主の使が命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた。
しかし、子が生まれるまでは、彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名 づけた。1章24~25節 口語訳

マタイ1章18節〜25節 新改訳2017
イエス、キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。
夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。
彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子、ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。
「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
ヨセフは眠りからさめた後に、主の使が命じたとおりにし、自分の妻を迎えいれたが、子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。

今日は、クリスマス礼拝。クリスマスとは、キリストの祭りという意味です。キリストとはギリシャ語で救い主を意味し、日本語にするとクリスマスとは『救い主祭り』ということです。キリスト教会では、イエス様を救い主キリストとして信じ従う集団ですから、クリスマスを祝う人々は皆キリスト教徒ということになります。今日は、『ヨセフのクリスマス』と題して、人としてのキリスト、イエス様の父はヨセフですから、ヨセフがどのようにして、最初のクリスマスを迎えたかお知らせし、ヨセフにも聖霊が働き、人の救いのために神が人となられて、類い稀なる主の救いのわざに、ヨセフもその一環を担ったことをお話し、私たちもヨセフの体験、それは御霊による処女懐妊、天使を用いて告げられた神のみ告げ、ヨセフが忠実に神に従ったことを学び、主なる神を礼拝しましょう。

 1.御霊による処女懐妊
18節をご覧ください。「イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤは、」イエス様の母は、つまりもう母となっているみたいな感じです。」その後に続く文がショックを受ける記述です。
「母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。」
四つのキーワードがあります。

  第一に、ヨセフはマリアと婚約中であったこと。
  第二に、正式に結婚式をあげる前であったこと。
  第三に、マリアが妊娠したこと。
  第四に、マリアの妊娠は聖霊によるものであることの四つです。

ひとつ目は、婚約中、いいですね。人生の中でも一番良い期間。
二つ目は婚約したのだけれども、まだ一緒になる前、つまりまだ式を挙げていない、双方が両家が結婚を約束してはいたが、特にこれから結婚しょうとする男女がまだ一緒になっていないという現実であった。しかし三つ目は、ところが女性の方が身重になった。何というか、結婚式前に子供ができちゃったという、あり得ないことが起きた。深い付き合いがないのに、妊娠した。
四つ目、それは聖霊による懐妊であるとマタイは述べています。
 先週、お話しました通り、神は、ヨセフのフィアンセ、マリヤに対して、あらかじめ妊娠するという予告をしていました。 ルカによる福音書第1章31節をご覧ください。神から遣わされた天使がこう言っています。「見なさい、あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。」とあります。
マリヤよ、あなたは神からの恵みをいただいて、あなたは身篭る、男の赤ちゃんが産まれると告げられました。マリヤは、まだ結婚していないのだから妊娠することはないでしょうと天使に答えましたが、天使はさらにマリヤに言うには、神にできないことはありません、聖霊があなたに臨みますから、その時にわかることです、と言われ、マリヤは神を信じ従い懐妊したのです。
一方ヨセフには事前にマリヤ懐妊の予告はありません。人づてにマリヤ妊娠を知らされたかフィアンセのマリアが告白したか、ヨセフがマリア懐妊の事実を誰から聞いたのかは書いていませんが、とにかくヨセフはマリア懐妊を現認しました。そしてヨセフは熟慮の末、19節には、「ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公になることを好まず、ひそかに離縁しょうと決心した。」
身に覚えがあれば、子供ができたのが公になるのは致し方なしですが、自分の子供が生まれるわけですから。離縁しょうなどとは思わない、マリヤ懐妊は、神の計らいですが、そのいきさつを知らないヨセフ、神からの事前通告もないままヨセフが知ったことは、マリヤが懐妊したということだけでした。一緒になる前、婚約者である自分と一緒になる前ですから、いわずもがな足入れ婚(両家が子孫を残すために、息子、娘を婚前交渉するのを認め、娘が子をはらめば結婚式をする日本古来のしきたり)ではない。当時も今も同じですが、イスラエルの厳格な律法、結婚を重んじる掟。その律法を守り行っていたヨセフ。彼の婚約者、マリヤが懐妊したということは、自分の他にマリヤには特定の男性がいるのではないかと考えるのは当然のことでした。ヨセフは、自分には身に覚えのないことでしたが、マリヤを批判する気持ちはありませんでした。また、自分の身の潔白を証明する手立てもないことをわきまえている聡明さもありました。もし、ヨセフが愚かな人物であるなら、『私には身に覚えのないことだ』と周囲にわめきちらしたことでしょう。またもし、ヨセフがマリヤを愛していなかったら、『婚約者たる私の他に男ができていた』と非難したことでしょう。ヨセフは熟慮の末、マリヤ懐妊を公にしないこと、マリヤとの婚約解消を密かに進めることにしました。19節 具体的には、マリヤと深い関係にある方と結ばれればよい、自分との婚約はなかったことにし、マリヤから潔く身を引こう、そう決断したに違いありません。マリヤに好意を持っていた分、愛していた分、ヨセフは悲しんだことでしょう。 ここにヨセフの正しさがあります。それは神の正しさでもありました。
もう一つ考えられることは、マリア自身がヨセフに聖霊による懐妊である、天使が表れて云々と話し、ヨセフはそのマリアの話を信じたのかもしれません。そう信じたとしても、現実にはあり得ないことですから、ヨセフはマリアが懐妊しているこの現実を直視し、心配でたまらない心境に陥り、思い巡らしていたのかもしれません。

 2.天使のお告げ
二番目ことに参りましょう。20~21節をご覧下さい。思い巡らしていたヨセフに対して、神が応答します。20節に
「彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、『ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻に迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの神をそのもろもろの罪から救うものとなるからである。』」
 私はここを読んで思ったことは、マリヤには事前通告されたのに、ヨセフにももっと早く神様は告げられたらいいのに、そう思いました。でも聖書はヨセフが現実を正しく認識するまでは、神はお言葉をかけないとでも言うようにして、昼間、ヨセフがあれこれ思案しているうちは神は語らない。意気消沈してとは書いていませんが、おそらく夜、神に委ねて眠りについたヨセフに神は天使を遣わし、夢のなかで、心配しないで妻としてマリヤを迎え入れなさい。他の男の子供ではないぞ、神の霊である聖霊の子、特別な子が生まれる。名付け主はわたしだ、その名はイエス。子の将来も決まっている。それはおのれの民をその諸々の罪から救う者になる。ヨセフよ、あなたはその子の父親になるのだ、そう夢の中で言われたヨセフは、この天使のみつげを神のお言葉と捉え、その通りに信じ従います。そう信じた時に、ヨセフの心配はなくなり、厳粛な畏れをもって妻マリアが無事出産する神のわざに全力を注ごうとしたことでしょう。

天使のお告げは、21節で終わり、22節でマタイはこう記しています。「すべてこれらのことが起こったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。」と記し、
続けて、その預言の言葉を示しています。
「すなわち、見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう。」
これは、イザヤによって預言された言葉です。同7章14節 イスラエルの人々は皆、このイザヤ書は知悉していました。ヨセフも生粋のユダヤ人ですから、当然この預言の言葉を知っていました。神からこの預言の言葉にある乙女が身籠る、その乙女がマリヤであると断定された時に、ヨセフは大きな戦慄を受けたに違いありません。マリヤの婚約者であるヨセフは、マリヤとの結婚を解消するのではなく、神の大きな祝福としてイザヤ書の預言に従ったのです。

 ヨセフが夢の中でしたけれども確かに神の声を聞きました。そしてその御言葉通りにマリヤを妻として迎えました。私たちの御言葉信仰はどうでしょうか。私たちには聖書を通して神様は私たちに声をかけてくださいます。それを明確に聞くならば、私たちもまた同じように聖書の言っている通りに行いが、生活が、なされていきます。もし聖書にあやふやにしか聞いていないならば、行いがまた生活があやふやになります。聖書に聴かず、テレビに聴くならば、テレビが言っている通りになっていきます。私たちは、神の言葉を聴きます。そして神の言葉は聖書の御言葉を通して一人一人に語られます。この者は、信徒説教者として立てられています。そしてこの者は、『わたしの説教を聞きなさい』とは口が裂けても言いません。なんと言うか、『聖書に聴きなさい、神に直接聞きなさい、わたしの説教の中に神のお言葉を見出してくだされば幸いです。』

 3.忠実なヨセフの信仰
三番目のことに参りましょう。ヨセフの信仰は忠実だったことです。イエスという名前を誕生の際にはヨセフがつけますが、それは神が天使を通して、イエスと名付けなさいと言われたからです。イエスという名前は、神が救うという意味であり、ヘブル語では、『イ ェシュア』と発音する、『イ』はイスラエルの神ヤハウェの短縮形、『ェシュア』は救うという動詞です。漢字で書くならば、『神救男』。『イェシュア』はまたヨシュア記のヨシュアと同じ言葉ですし、当時はイエスという名前は、ごく一般的でした。あちこちにイエスと名付けられた方々が多数いました。だから新約聖書ではわざわざナザレのイエスというのです。マルコ1章24節、ルカ4章34節他新約聖書には十箇所「ナザレのイエス」が記されています。
しかし、マタイは、「その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」、と記し、ヨセフが天使から指示された名前は「イエス」ですから、矛盾しているではないか、と思われでしょうか。イザヤ書8章には、神がイスラエルの民をどのように救うかを記してあるところですが、イザヤ書8章8節に「インマヌエルよ、その広げた翼はあまねく、あなたの国に満ちわたる」とあり、イザヤは神の預言として将来出現するインマヌエル、その意味は神が共にいるという意味する人名の人物を記しています。
マタイは、イエス、この神救男は、そのうちインマヌエルととなえられる、つまり神共男と呼ばれる、イザヤ書8章に預言された特別な名前であり、神が共にいる救い主なのだと記し、旧約聖書の預言が成就したのだと特記したのです。アブラハムに始まり、ダビデ王を経由して繋いできたイスラエルの皇統に連なるヨセフが、神のみつげに従って、深い関係のないまま、懐妊したマリヤを娶り、子の誕生を見てイエスと名付け、ヨセフはその子の父親になります。神に従い、マリヤを愛するがゆえに、25節には、「子が生まれるまでは彼女を知ることはなかった」とあり、ヨセフの潔さを伺い知ることができます。それはまた御霊の働きの一つである自制の成せる潔さでもあります。
 神がわかった、そのご存在、全知全能のお方であることがわかっただけではない。神の言われることに従い、行いが伴う忠実な信仰です。
 私たちクリスチャンが信じ従うのは、主イエス様です。主イエス様について、牧師先生方がいろいろと教えてくださいました。その中に主イエス様のお名前に力があるという教えがあります。

諺に、「虎は死んで皮残し、人は死んで名を残す」と言います。主イエス様は、「霊があなたがたに従うことより、あなたがたの名が天に記されていることを喜びなさい」ルカ10章20節 と言われました。そう言われたのは、七十二名の弟子たちが、主イエス様の福音宣教命令に従って、それぞれに命令された場所に行って、その所の人々に病の癒しと福音宣教をしたから、この七十二名の名前が天に記されたのでした。
 私たちも同様に、主イエス様の福音を人々に伝えることをするならば、私たちの名前が天に記される、つまり天国に入れます。七十二名の弟子たちが宣教して、皆が皆大きな成果をあげたからではないのです。中にはたいした成果をあげずに意気消沈して戻ってきた弟子たちもいたかもしれません。でも弟子たちは全員、主イエス様の命令に従って伝道したこと、病の癒しのわざに従事したことを喜んでいました。
 主イエス様の救いにあずかり、洗礼を受けた私たちクリスチャンは、神の子供となりました。私たちは神の子ですから、天の父なる神様と親子関係になった証しとして、「天の父なる神様」と呼びかけるのです。アバ父よ、おとうちゃんと言うようなものです。そのような親子関係にしてくださったのは、神のひとり子であるイエス様がこの世に来られて、私たちの罪を一身に引き受けられ、私たちを罪なき身にしてくださり、罪の結果である滅亡から贖い出してくださったからです。クリスマスは、キリストの祭り、すなわち神の子が人間となってくださり、救いの業を始められた喜ばしい祭りなのです。罪けがれから清められ、地獄に行くべき身が、永遠の命、天の国にいれてくださる道が開かれたことを感謝する時なのです。ヨセフの忠実な信仰を神は用いられました。私たちも救い主イエス・キリストに忠実な信仰を持ち、日々主イエス様の言われるお言葉に聴き従って行くならば、私たちの名が天に記され、必ずや私たちは天国へ迎え入れてくださいます。この信仰の道にはいりませんか、主イエス様は今も、この信仰の道に入るように招いておられます。もう入っていると思われ、この信仰の道を歩んでおられる方々は、しっかりとその歩を進めていきましょう。今日は、クリスマス、この信仰の道筋が主イエス様ご自身によってあらわにされた記念すべき日です。イエス・キリストのみが私たちたちを救い、すべての民に与えられる大きな喜び、救いの喜びの源なのです。

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「苦しみを超越する喜び ピリピ講解⑤」
  2023年12月17日 黒澤俊人勧士

聖書箇所  ピリピ人への手紙2章12~18節

おはようございます。
先ほど朗読いただきました、今日の聖書箇所ピリピ人への手紙2章12節~18節には、パウロが感じている大きな喜び、それは苦しみの中にあって損なわれることのない喜びが書かれているように思います。そこで今日は「苦しみを超越する喜び」と題して、私たちに神がくださる喜びは苦しみを超越する、あるいは苦しみをものともしない喜び、であることをお知らせし、その源である主なる神、イエス・キリスト様を礼拝しましょう。
『そんな、苦しみと喜びが同居するような人はいないよ、苦しい時は苦しみしかないし、喜ぶときは束の間だよ』とおっしゃる方も多いでしょう。そうゆう方は多分に、感情によって、肉的な意味での苦しみであり喜びなのではないかと思います。聖書が語る喜びは、天来のものです。また今日の聖書箇所をひとつひとつ見ていきましょう。

12節「こうゆうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するように努めなさい。」
「こうゆうわけですから、」とまず記されています。前回語りましたが、キリストが主なる神に全く従ったように、私たちも、イエス様を主なる神としてかつ救い主として信じ従った者たちですから、当然の事ながら、主イエス様に従順でありますように、とパウロはピリピ教会に勧めています。この従順は、神に対する従順です。パウロは自分があたかも教祖のようになっていて、自分に従順であるように求めているのではありません。私がピリピに居て共にクリスチャンライフを送っていた過去だけでなく、自分がピリピを離れても、あなたがたの主イエス様、いな私たちの主イエス様は、変わりなく祝福してくださり、恵んで下さる方ですから、もっと言えば、パウロは、パウロに限らず人はだれしも、時代と空間に限定されますから、パウロが取り継ぐ、人が取り継ぐ神の愛は、一部分でしかないのです。だからパウロは、ピリピの方々、おひとりびとりが直接に主なる神、とこしなえに変わり給うことのないイエスキリストに従順であるように、それも「恐れおののいて」従順であるように、具体的には主イエス様がこうしなさいと言われたことを厳守することです。
霊的な意味合いにおいて、パウロはひたすら主イエス様と密接な繋がりを日々重ねていたに違いありません。3章のところで、パウロは自分が頼ってきた肉的なものの価値よりもはるかにすぐれた霊的な価値そのものである、私たちのイエスキリスト、このお方に従順であるようにとピリピの教会に勧めています。命令のように申し上げましたが、これは命令ではありません。神の愛を持ってイエス様が私たちに強く勧めておられることです。
主イエス様に従順になり、それが自分自身の救いに繋がるとパウロは確信していました。

「自分の救いを達成するように」とあります。これは他者の救いはどうでもいいと言っているのではありません。福音を宣べ伝える者が、救いに与らず、天国に行けないのであれば、なんかおかしい。分かりやすく言うと、『私は天国に行くけど、あなたは地獄に行きなさい』と言ったら、何だよこの人はということになりますでしょ。『私は天国に行きますから、あなたも行きませんか』というのが真の信仰者の言動です。私の場合は、こう言います。『このまま行ったら私は、間違いなく地獄に行くという過去がありました。しかしイエス様と出会い、この方こそ私を救う命の君であることが分かって、それまでの罪を悔い改め天国に行く者とさせていただいた。あなたも天国に行きませんか。』

13節をご覧ください。これを裏付けるようにして、「神はみこころのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」
と語ります。救われたいという願いは、実は神が私たちに働きかけて起こさせ、救われたい願いをかなえてくださるのも、やはり神なのであって、神は喜んでくださることなのです。ご近隣の方の中には、救われたいという願いを真剣に考えていない人々が多いのではないかと思わされます。中には、私と顔を合わせると笑顔でこう言う、『わしゃ、死にたい、はやくお迎えがこないかのう』。真剣まじめなご様子ならまだしも、笑い顔で言うものですから、『お顔が笑っていらっしゃる。ご冗談でしょ、本当に死にたいなら笑顔で、死にたいなどと言いませんよ』。こちらも冗談っぽく返さざるを得ません。

14節「すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。」
すべての事を、不平を言わずに、疑わずにとあります。すべてのことと言っても、何が何でもということではないでしょう。むしろここで私たちが学ぶべきことは、「実行する」ということです。行いの伴わない空しい信仰を思います。個人的に救われた者たちは、一致して福音を現実のものとすることです。

15~16節「それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、苦労したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」
「いのちのことばをしっかり握り」
いい表現ですね。世間では金をしっかり握りでしょうか、上品なところでは、知性と教養を握りでしょうか。聖書は、金でもない、知性でも教養でもない、握りしめるべきはいのちのことば、です。旧約聖書は、もっと具体的に言っています。「あなたの道を主にゆだねよ、主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」詩篇37篇5節
6節の終わりの方には、「キリストの日に誇ることができます。」
今、褒められるのではない、今、誇ることではない。また人々は、仲間の評価することさえパウロは全く期待していません。「キリストの日」つまり主イエス様が再臨なさる終わりの日に、です。パウロは、この終わりの日を生涯切望し続けていました。パウロは別の書簡で、こう記して、主イエス様に褒められることだけに愛着していました。
「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか。それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか、もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。」ガラテヤ書1章10節

17節「たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。」
18節「同じように、あなたがたも喜んでください。私とともに喜んでください。」
殉教の死という、手放しでは喜べない、なんか悲しい中でも、しいて喜びなさいと言っているように感じます。そうだろうと思います。事実、第一回の時に申し上げましたが、このピリピ人への手紙は、パウロ先生が、アジア、今のトルコばかりが、ギリシャ、マケドニヤの各地に主イエス様の教会を立ち上げ、意気揚々とエルサレム、宗教的な世界センターに凱旋したはずのパウロ先生が、今はローマの監獄にいる。ピリピの方々にとっては喜べるはずのない現状の中で、なんとパウロ先生が言うには、殉教の死者となっても、私は喜ぶぞ、あなた方、ピリピの方々よ、共に喜ぶようにパウロは勧めています。

アドベントの第三週を迎え来週にはクリスマスを迎えるこの時期に思うことは、主イエス様が母マリヤの胎内におられた終わりの方に当たる日々を、この聖母子は一体どのようにして過ごされたか、そう考えるとこの者は、母マリヤの強い信仰を覚えます。そしてこの者も母親の胎内に数カ月いたのですから、母親の深い愛情を覚えます。そして子を産む女性に与えられる大きい喜びをも思います。産みの苦しみ、ということが言われます。それと同時にひとりの赤子が産まれたという喜びがあります。その喜びは産みの苦しみを超越します。神も同じように、天上にいるはずのそのひとり子を、救い主として、喜んでこの世に送ってくださったのです。母マリアがどのようにしてイエス様を懐妊し、ご出産なされたかをお知らせしたい。
「ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ。キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった。」マタイ1章16節とあります。 主イエス様のこの世での母親はマリアです。父親はヨセフです。
「イエス、キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。」マタイ1章18節
婚約中に、妻となるべき女性が懐妊した。婚約者のマリヤも自分自身、懐妊したことを実感していた。しかも互いに性交渉はないのに懐妊した。お二人には、神からのお言葉がありましたから、聖霊による懐妊であることは信じ受け入れていましたが、身内も含めて、周囲の目は罪を犯したと判定され、罰せられるのではないか、冷たい目で見られる苦難が予想されたことでしょう。
聖書は女性にとてもやさしい、女尊男卑みたいなところがあり、来週にはヨセフの『苦しみを凌駕する喜び』を語りたいと思っていますが、今日はマリアに対して神は、その予想される苦難、産みの苦しみの前に天使をつかわしてこう言います。「さて、その六ヶ月目に、御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。この処女はダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアと言った。御使いは入って来ると、マリアに言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。』」ルカ1章26~28節
天使が告げた「おめでとう」という言葉は、また「喜びなさい」と訳せる言葉で、今日の箇所の18節の「「喜んでください」と同じ言葉です。マリアよ、とにかくこれから起こることを喜びなさいと天使は挨拶を送る。突然の天使の来訪と、挨拶を送られたマリアは、当然のことながら、困惑し、これはいったい何なのか、と考えこんでしまう。神の方でも、マリヤが味わう産みの苦しみと、神の子を出産する大きな喜びを具体的に示しておく必要があるとお考えになられたのでしょう、天使は続けてこうマリアに告げます。
「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。見なさいあなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスと名づけなさい。その子は大いなるものとなり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」ルカ1章30~33節
ああそうですかとマリアはすぐにその神の言葉を信じ受け入れたのではありません。
マリアは御使いに言った。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」同34節
マリアの信仰は、盲目的に信じ従う信仰ではないのです。現実にはありえないことを認識する優れた感覚を持っていました。このマリアのリアクションを良しとして、天使はマリアに真実を伝えるべくこう答えます。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは何もありません。」同35~37節
この神のみ旨を告げられて、初めてマリアは聖霊に導かれて、マリアの自由意思をこめてこう信仰告白をします。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどうり、この身になりますように。」同38節
マリアのこの真実な信仰告白を聞き、天使は去ります。マリアは、すぐに行動を開始します。み使いが言った、親族エリサベツが懐妊しているというみ告げ、老女になっていたあの親戚のエリサベツが懐妊しているという事実を自分の目で確かめるために、親族であり祭司であったザカリヤとその妻エリサベツ夫妻が、エルサレムを離れ、自然豊かなユダの山地に引っ込んでいたところに行きます。マリアとエリサベツの間で三か月にわたり対話なり交わりがなされた。この三か月の期間中にマリアの胎内に人間イエスが受胎したのではないかと想像されますが、とにかくマリアは聖霊体験をしていたエリサベツとともに安らかな三か月を過ごし、ナザレに戻ります。そして厳しい現実にさらされることになります。しかし神は、ヨセフにも現れて、マリアとヨセフにはその厳しい現実を乗り切る喜びが与えられます。タイミングよく、ローマ帝国はイスラエルの人々にも人口調査をする布告を出し、出身地にて登録する布告を出します。婚約中の二人に子供ができるなどといううわさがナザレの町中に広がる前に、ヨセフとマリアは人口調査に応ずるために、ヨセフの出身地ベツレヘム、ダビデの町として知られ、ヨセフがダビデの家系であったために久しく行けなかったベツレヘムに行くという決断をして、有り金全部を持って、ナザレから距離にして約180Km離れたベツレヘムに向かい、そこでマリアは月が満ち、イエス様をご出産されたのです。「マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」ルカ2章6~7節 と聖書は記し、母親としては、不本意な、父親としてヨセフは情けないと思わざるを得ない環境でイエス様はお生まれなされた。しかし、この夫婦には「すべての民に与えられる大きな喜び」が与えられていました。その喜びの中身は「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」という神の祝福のメッセージでした。

末尾になりますが、この大きな喜び、苦しみを超越する喜びに生きぬいた方のお証をし、説教を終えたいと思います。
私が中華人民共和国の首都北京に駐在していた時に、主日礼拝は、北京国際教会とその一支部である日本語教会で守っていました。礼拝が挙行される場所は、北京市朝陽区亮馬橋にある二十一世紀飯店(飯店とはホテルのこと)の大ホールで、まず英語での礼拝式が約一時間なされ、欧米各国から遣わされた宣教師により司式されていました。黒人の中国語に堪能な通訳者が英語を北京語に通訳していました。それが終わると同ホテルの会議室にて日本語の礼拝式が開かれる。河口長老とおっしゃる方がこの日本語教会を担っておられました。この河口長老、建築材料を扱う会社を長年経営していた方で、日本国内で一通りの成功を収め、お子様方も独立し、残りの人生と自分の会社を売り払ったお金をキリストに献げ、北京で伝道牧会に当たっておられた方でした。この河口長老は、私が帰任して北京を去った2007年4月後、一年ほどして、河口長老も帰国されたと聞きました。帰国の理由は、癌を発症され東京都中央区にある国立がんセンターに入院され治療に当たられるとのことでした。なかなかお見舞いにも行かれず無沙汰していましたが、しばらくして訃報がもたらせられました。勤務地の近くの教会、とは言ってもビルの一室を借りて集会を持っている家族的な教会でしたが、ご葬儀に駆けつけました。キリスト教会の葬儀は、礼拝ですし、礼拝は喜びをもってささげるものですから、キリスト教会の葬儀は、悲しみの中にも喜びがある式になります。河口長老のご葬儀も同じかなと思いきや、びっくりすることに、河口長老のご葬儀は、喜びの中に悲しみがあるという感じでした。長老のお嬢様が挨拶されて「父は、癌で苦しんでいたと思うのですが、一切それを顔に出さず、御言葉にある通り、いつも喜んでいなさい、絶えずいのりなさい、すべてを感謝し、癌に対しても感謝していました。まもなく主イエス様のところに行けると言って喜んでいました。父は、この世を去って、天の御国に行きましたから、皆さんにもそう伝え、葬儀をしてほしい、とも言っていました。」と挨拶されました。

お嬢さんの目には、涙はありません。悲しみを押し殺す姿でもなく、喜びに満ちていました。そして、生前に録音された河口長老の肉声が会場に流れました。北京で聞いたのと同じく、聞く者たちに対する愛情あふれる優しいかつ確信に満ちた語りでした。曰く「皆さん、私たち人間が一番幸せなのはイエス様と共にいることなのです。」
そうです、みなさん。私たちは今日も、特にイエス様の降誕を待ち望むアドベントの期間、主イエス様にお会いするために、喜んで教会に来られたのです。天国では顔と顔を合わせて、主イエス様は、麗しいお姿を見させてくださる、その喜びの希望を持って、私たちはこの地上で礼拝をささげているのです。神はみこころのうちに働いて救いの志を立てさせ、私たちの救いを、喜んで実現してくださる主なる神なのです。

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 説教「キリストの愛の喜び」ピリピ講解④
   2023年12月3日 黒澤俊人勧士

聖書箇所  ピリピ2章1〜11節

1節「ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情と哀れみがあるなら、」
「ですから」とある冒頭の言葉、口語訳では「そこで」、共同訳も「そこで」というこの言葉は重要です。ここは、もっと言葉の意味するところを拡大して「こうゆうわけですから」と解釈するのが良いでしょう。その意味するところとは、前章で述べた「キリストの福音にふさわしい」生活と『キリスト者の一致団結』が私たちの個人にとっても、教会にとっても、またこの世の人々にとっても、救いにあずかるためには欠かせないということを意味しています。この「ですから」をさらにつまびらかにして、パウロは、愛の慰めがあれば良い、いくばくかでもあれば良いと展開させています。
欲望が少しでもあると、悪魔につけ入れられるのと同様に、愛とあわれみが少しでもあれば、御霊が働く。神からの愛をより多く受けていればその分、救いは、キリスト者の生活は確実なものになります。私たちも、パウロと同じように、自分の自由意志を、欲望にスィッチを入れるのではなく、他者を思い合い、また弱い方々を思いやる愛の心にスィッチを入れる。すると御霊が働き、御霊の実をむすびます。

2節「あなた方は同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。」
前回も一つの霊、一つ心になってとパウロはピリピ教会を励ましているのを繰り返し、そうなることが自分の喜びとするところだと言っています。私の父がよく言っていたことですが「仲良くしなさい。仲良くやりなさい」と、私と弟とを前にして父はよく言ったものです。教会の中でも、会員どうしが仲良くご奉仕いただきたいし、私も皆様方と仲良く使命を果たしていきたいと願っています。仲良くするためには、どうしたらいいでしょう。それは、相手の嫌うことをしないことです。

3節「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。」
党派心は、なんでもかんでも反対というひねくれ者の心を言います。虚栄とは光栄に値する高貴さがないのに栄光とすることをさします。党派心や虚栄が動機ではいけません。党派心や虚栄は、愛による一致をするキリスト者と教会の敵です。党派心や虚栄、名誉欲もそうですが、産まれながらのの人間に特有のものです。人はこれらのものに誘われると、なかなかそれらを拒絶することは難しい。その虜になりやすい。御霊の実の一つである自制心を活かして、もし私たちの心の中に反発心があったり、自分に高貴さがなかったりする場合は、ぐっとこらえて何もしない方がいい。私たちの行動する動機は、謙遜でありまた他者をより優れた者と考えることです。自分には能力がない弱い方々は、素直にこれを受け入れることができますが、優れた方々は、これがなかなか出来ない。優れた方々にお勧めします。他者を優れたものとしなさい、を現実にするべく、相手が劣っていると思う思いは、己の心の中に閉じ込め、他者の優れたところを見抜いて、取り出すようにして誉めたらいいのではないかと思います。他者を批判したら、自分より優れたものとしなさいという教えに合致しているとは言えないでしょう。

4節「それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。」
自分より優れた者と思えない方には、まず他人を相手を顧みることから始めてはどうかと示唆しているように思います。
自分自身のことを考えるなということではありません。「ほかの人のことも」と言っています。ですから私たちは誰しも、自分のことを考えてよい。
友情は、相手のことを充分に考えることから始まる。その相手が、また相手のことを充分考えると麗しい友情になります。教会の中でもまた他者のことを考えることが、大切です。「互いに愛し合いなさい」ヨハネ13章34節 という主イエス様の教えがあります。お互いに相手のことを思いやることです。自分の信じたことにこだわらないで、もちろん自分が確信していることを手放してはなりません。私たちは皆キリストのからだなる教会の一員です。それぞれ果たすべき役割が異なっているのですから、自分だけに与えられている確信を仲間に押し付けてはなりません。
 要は、他者を思いやる気持ちがあれば良い。
これは、旧約聖書の、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」レビ記19章18節 に基づいているように思います。また主イエス様は、律法学者の質問に答えて、良きサマリヤ人の譬え話しをされました。
ルカの福音書10章25~37節を朗読します。
「さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。『先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。』イエスは彼に言われた。『律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。』すると彼は答えた。『「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性をつくして、あなたの神、主を愛しなさい」また「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」とあります。』イエスは言われた。『あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。』しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。『では、私の隣人とはだれですか。』イエスは答えられた。『ある人が、エルサレムからエリコに下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、旅をしていた一人のサマリヤ人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。』彼は言った。『その人にあわれみ深い行いをした人です。』するとイエスは言った。「あなたも行って、同じようにしなさい。」

5節「キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなた方の間でも抱きなさい。」
キリストイエスにあっていだいているのと同じ思いとは、ピリピの方々がキリストに対する思い、あるいはイエス様から示された思い、どちらでもいいと感じますが、その思いを相互に、教会の中でも活用しなさい。いな主日を守って、月曜日から始まる平日にも教会に連なる者同士はその思いを活かしなさい、なのです。

 6節以降は、キリストの思いの麗しさが描かれている美しい描写です。口語訳聖書では、この節の前後と同じく、論文や説明文と同様に、きっちりと改行することなく書かれていますが、新改訳2017、共同訳では、詩歌のように、文節毎に改行して訳出されています。当時歌われていた賛美歌の歌詞ではないかと思われます。パウロはその賛美歌の一節をそのまま書き記したのでしょう。主イエス様の麗しさがとてもよく表現されています。私たちも、この聖書箇所は歌うように、あるいは詩吟をするように唱えたいところです。詩歌と受け止めれば、私たちは、聖書のままに吟じたらいいと思います。共同訳がいいと判断し、共同訳で朗読します。
「キリストは
神の形でありながら
神と等しくあることに固執しようとは思わず
かえって自分を無にして
僕の形をとり
人間と同じ者になられました。
人間の姿で現れ
へりくだって、死に至るまで
それも十字架の死に至るまで
従順でした。」

十字架の意味する広い寛容さが示されていいます。十字架の意味する永続的長い時空に惹かれます。十字架の意味する高貴な犠牲を感じます。十字架の意味する深い愛を想います。このキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さは今も変わらず続いています。(エペソ3章17~18節)

9節「それゆえ神は、この方を高く上げて、
すべての名にまさる名を与えられました。」とこの詩歌は続きます。ここの「神」は父なる神のことです。父なる神は、イエスキリストの従順さ故に、引き上げ、最高の名を与え、と淡々と、文学的にといいますか、歌っていますが、その麗しさの背後に、父なる神の悲愛を思わないではいられません。父なる神の悲愛、自分の息子を犠牲にしてまで、この世を愛された愛です。旧約聖書創世記22章にその雛型というか、模型というか、描写があります。信仰の父アブラハムがひとり息子イサクを燔祭、全焼のいけにえとして献げた記事です。創世記22章
「これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。神が彼に「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は「はい、ここにおります」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、私があなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげものとして献げなさい。」翌朝早く、アブラハムはロバに鞍をつけ、二人の若い者と一緒に息子イサクを連れて行った。アブラハムは全焼のささげ物ための薪を割った。こうして彼は、神がお告げになった場所に向かって行った。三日目に、アブラハムが目を上げると、遠くの方にその場所が見えた。それで、アブラハムは若い者たちに、「おまえたちは、ロバと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻ってくる」と言った。アブラハムは全焼のささげ物のための薪を取り、それを息子イサクに背負わせ、火と刃物を手に取った。二人は一緒に進んでいった。イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」かれは「何だ。わが子よ」と答えた。イサクは尋ねた。「火と薪とはありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。アブラハムは答えた。「我が子よ、神ご自身が、全焼のささげ物にする羊を備えてくださるのだ。」こうして二人は一緒に進んでいった。神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。その時、主の使いが、天から彼に呼びかけられた。「アブラハム、アブラハム。」彼は答えた「はい、ここにおります。」み使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」アブラハムが目を上げてみると、見よ、一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の息子の代わりに、全焼のささげ物としてささげた。アブラハムは、その場所をアドナイ・イエルと呼んだ。今日も、「主の山には備えがある」と言われている。

ピリピ書にもどり、10節
「それは、イエスの名によって、
天にあるもの、地にあるもの、
地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、」
イエス様のお名前により天、地、地下のもの、全てのものがひざをかがめる、つまり礼拝する、

11節「すべての舌が
「イエス・キリストは主です」と告白して、
父なる神に栄光を帰するためです。」
イエス様が、キリスト、メシア、つまり救い主であり、ご主人様、いにしえの日本人的に言うと、侍が殿様に従うように、自分を活かす神であると告白する、告白ですからこれはただ単に『イエス様が主人です』と言うだけではなくして、服従する自分の意思の表れであり当然のことながら『衷心から主人の言うことを聞き従います』と言うことまで含んでいる告白です。パウロが生かされていた時代では、この告白をすることは命がけでした。巨大なローマ帝国の支配下にあった時代には、パ
ウロとその時代を生きていた人たちにとっては、ローマ皇帝に絶対服従をする、ローマ皇帝が神でした。したがって、ユダヤの片隅で生まれたイエス様が何の権力もないのに、『イエス様は、救い主、主なる神である』と告白する事は、彼らにとってはローマ皇帝をあるいは敵に回すような告白でもあったのです。現代はどうでしょうか。私たちは毎週、このようにして集まって主イエス様は主ですと告白する集いであることが、容易にできることは喜ばしいことです。誰も文句は言わない。悪魔は、今の日本をこの告白をさせまいと、策略をめぐらせて、日本国民を騙しています。その一つがマスコミの宗教嫌い政策です。神を信じるなんて狂気の沙汰だという考え方です。そもそも神なんていない、「目に見えないじゃないか」と言う。パウロは勧めています。「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」Ⅱコリント4章18節
また聖書は、「聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。」と告げます。
どうでしょうか。私たちも、「すべての舌が」ですから、みんなで一つになって、主イエス様の愛に満たされ、喜んで「イエス・キリストは主です」と告白し、父なる神に栄光を帰そうではありませんか。

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 説教「キリスト者生活の喜び」ピリピ書講解③
     
   2023年11月19日 黒澤俊人勧士

聖書箇所  ピリピ人への手紙1章21~30節
中心聖句 「ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい。」同27節a

 今日の聖書箇所、21節には「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」とパウロは記していますが、「生きることはキリスト」、などと、今日の御言葉の箇所は、冒頭から、訳の分からないことを言っています。まして「死ぬことは益である」とは死んだら、この世を去ることだから、この世のために働けなくなるのに、死ぬのは益とは何事ぞ、と思ってしまいます。
 そんな誤解を解くことが22節と23節に書かれています。
「しかし、肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストと共にいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。」
すなわち肉体において生きていることが、自分には実り多い働きになるのだとパウロは確信していました。パウロはキリストの莫大な価値を知っていましたから23節にあるように、この世を去って天にて主イエス・キリストと共にいることの方がはるかに良いという信仰があったからです。パウロはまた、生きるが得か、死ぬのが得かを自分の自由意志で決めることは出来ないと考えていました。パウロは、聖霊が導かれるまま生きて、やがて聖霊が寿命を知らせてくださり、主イエス様が天に引き上げてくださる希望を抱いていました。主イエス様に徹底的に仕える僕の地位を心底望んでいました。
 前々回、言い忘れてしまいましたが、このピリピ人への手紙の冒頭で、パウロは自分自身を、「キリスト・イエスのしもべである、パウロ」ピリピ1章1節 と言っています。パウロが告白している、そのしもべとはどんな存在なのか。パウロは旧約聖書を知り尽くしていた学者でもありましたから、出エジプト記21章にある、きりで耳を刺し通された奴隷のように、イエス様を生涯の最良の主人としていたのではないかと思います。
そのところを朗読しますから、聞いて下さい。「あなたがヘブル人の男奴隷を買う場合、その人は六年間仕えなければならない。しかし七年目には自由の身として無償で去ることができる。彼が独身で来たのなら独身で去る。彼に妻があれば、その妻は彼とともに去る。彼の主人が彼に妻を与えて、その妻が彼に息子あるいは娘を産んでいたなら、この妻とその子どもたちは主人のものとなり、彼は一人で去らねばならない。しかし、もしもその奴隷が『私は、ご主人様と、私の妻と子どもたちとを愛しています。自由の身となって去りたくありません』と明言するようなことがあるなら、その主人は彼を神のもとに連れて行く。それから戸または門柱のところに連れて行き、きりで彼の耳を刺し通す。彼はいつまでも主人に仕えることができる。」
 現代のサラリーマンも、もし喜んで会社に仕えるならば、このきりで耳を刺し棟された奴隷ではないかとも思います。私は竹中工務店という建築会社に就職して長い間、サラリーマンでした。株式非上場の特殊な会社です。会長、社長一族の経営方針・方策は絶対的な独自のものでした。これに逆らうことは重役といえども赦されません。管理職、一般職はもちろん絶対服従を強いられる。しかし、忠実に社命をこなす社員は、家族の一員として手厚く遇します。社訓の第一に掲げられているのは、『正道を踏み、信義を重んじ、堅実なるべし』です。社業遂行中のミスは赦されますが、不正は赦されません。信賞必罰が確実になされていた良い会社です。きりで耳を刺し貫かれたしもべのように、竹中工務店に勤務させていただいたことは、私の誇りでもあり、金では代えられない貴重な経験を報酬をいただきながら、させていただいたことは感謝にたえません。

聖書に戻り、24節から25節には、更に説明を加えるようにして、
「しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です。このことを確信しているので、あなたがたの信仰の前進と喜びのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてとともにいるようになることを知っています。」
つまりパウロは自分が、この肉体にとどまることが、あなた方ピリピ教会のためにはもっと必要です、と確信し、ピリピの教会を愛するが故に、パウロは天にてキリストと共に居る幸いを当分の間差し控え、この世に留まりこの肉体に留まって伝道牧会のわざに喜んで励む態度を表しているのです。

26節にあるパウロのピリピ再来については、パウロ自身が再びローマからピリピに行くことは叶わなかったようです。しかし、テモテまたはその他のパウロ宣教団の宣教士がこの御言葉を実現させたと思います。

27節は、今日の中心聖句としましたが、
「ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなた方に会うにしても、離れているにしても、あなた方について、こう聞くことができるでしょう。あなた方は霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにして共に戦っていて、」
 とあります。キリストの福音にふさわしい生活というのはどんな生活でしょうか。ふさわしい、ですからキリストの福音に相当する生活、キリストの福音が現れている生活、あるいは、キリストの福音の価値がそのまま出て来る生活ということでしょう。私たちにあてはめるならば、クリスチャンライフのことです。

パウロは他の書簡の中で自分がこの世で生きているゆえんを述べているところがあります。「今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」ガラテヤ2章20節 一言で言うと主イエス・キリストの恵みの信仰によって生きていると言うのです。これがキリストの福音にふさわしい生活の中心です。私たちは私たちの心と体が生きています。でも心と体が生きているのは、キリストの恵みによるのです。私たちは誰一人として自分自身でいのちを作って、生まれてきた人はいないはずです。お母さんの胎内で育まれて『おぎゃー』と産声をあげて生まれてきたのです。自分の力で自分のこの命を生み出した人は一人もいません。そして心は、特に自由意志は幼い頃は未熟です。家族、友人、教師の影響を受けて成長していきます。日本語ではもの心が付くと言います。霊の成長もまた同じように芽生え、成長していきます。神は霊であり、私たちを創造された方ですから、霊の成長は神抜きにしてはなされません。霊の成熟もまたしかり。それは多くの場合、神の被造物を通してなされる。クリスチャンライフもまた、神の被造物から大きな影響を受ける。神が造られた被造物がもたらす福音、Good Newsに聴かず、マスコミが流すBad Newsにかじりついていては、キリストの福音にふさわしい生活と言えるでしょうか。
 肉体についても、パウロはおろそかにしていません。むしろ大切にしています。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、」Ⅰコリント6章19節 と認識しています。そしてもっと具体的に、私たちの与えられているこの肉体に必須の『食』についても、こう言っています。「食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。」ローマ14章6節

28節には
「どんなことがあっても、反対者たちに脅かされることはない、と。そのことは、彼らにとっては滅びのしるし、あなたがたにとっては救いのしるしです。それは神によることです。」とあり、口語訳聖書では「敵対する者」、共同訳では「敵対者たち」と訳しています。パウロ、ピリピ教会に反対する者たちがいたのです。今も私たちキリスト者に敵対する者たちがいることを聖書は指摘しているように思います。サタンとその手下は明らかに私たちの敵ですし、サタンに拐かされた者たちも私たちに敵対することもなきにしもあらずです。そしてパウロは、28節をよくよく読むと、敵対する者たちをやっつけろとは言っていません。「脅かされることはない」ように「霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つに」するように勧めています。そして「それは神によることなのです」から主なる神から授かる力、知恵が実現することなのです。

私たちの主イエス様は、右の頬を打たれたら、左も向けなさい、と言われ、そう言われたイエス様のしもべであるパウロですから、サタンを攻撃せよなどとは勧めない。では何を勧めていますか。「ろうばいさせられないでいる」28節口語訳、と言いキリストの福音にふさわしい生活を堅持し、この生活でいいのかなと疑問を差しはさむことのないよう、反対者、敵の攻撃にあっても、ろうばいすることのないように、うろたえることのないように、平常心を保ち、教会が一つになって堅守するように勧めています。ましてクリスチャンライフを乱そうとする宣伝に乗ることのないように、この前も申し上げましたが、自分だけ、金だけ、今だけの考え方なり思考をすることのないようにということです。何故ならば、「そのことは、彼らにとっては滅びのしるし、あなた方にとっては救いのしるしです。」と記されてあるように、キリスト者にふさわしい生活は、サタンとその手下には滅びのしるしであり、あなたがた、ピリピの教会、私たちにとっても救いのしるしだからです。私たちは、自分のことばかりかでなく他者をも思いやる愛の思考をします。神の愛を現実に示す生活をします。金だけではない、金には変えられない価値を優先する集団です。また今、2023年11月19日を過ごしている私たちは、昨日、今日、明日だけを考えることしかできない動物のような者ではなく、やがて主イエス様が来られて私たちを全き救い、永遠の命、御国を実現してくださる将来、未来を待ち望むキリスト者なのです。
29節に入り、パウロは、「あなた方がキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。」と記し、私たちにはキリストのゆえに受けた恵みがあるでしょうと言っています。それらは金には変えられない価値です。『そんなものあるか』などと言う方は、キリストが私たちに下さった数々の恵みの価値の莫大さに目を留めていない方の発言です。この莫大な価値は、サタンとその手下を滅ぼすものですから、悪魔に拐かされたら者、即ちこの世に属している者、もしかしたら聖霊が働かず、悪魔に身をまかせたクリスチャンもこのキリストの莫大な価値を評価せず敵対するでしょう。ですからパウロは、「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけでなく、彼のために苦しむことも賜っている」29節口語訳 と記し、敵対する者たちに脅えることのないように努力する困難さ、悪魔の誘惑に引き込まれたこの世を渡っていく生涯の苦闘を記し、クリスチャンライフの苦闘は、必然かつ救いの証拠であり、神の賜物なのだとも教えているのです。
30節には「かつて私について見て、今また私について聞いているのと同じ苦闘を、あなたがたは経験しているのです。」とあり、パウロの苦闘とピリピ教会の苦闘は同質のものであり、キリストのために苦しむことは昔から有り、今も続いているのです。口語訳では「苦しむことも賜っている」と訳しているとおり、その苦闘は恵みなのです。具体的にはどのような苦闘でしょうか。
お年を召したクリスチャンならば祈りの戦いに馳せ参じたらいいと思います。戦いと言いましたけれども喜んで祈ったらいいじゃないですか。晴れの日には笑顔で散歩されたらいいです。お年めした方が杖をついてでも喜んで歩いている姿を見たら、若い方々はそれを見てこのおばあちゃんには何かあるなと思うでしょう、それは立派なクリスチャンの証しです。曇りの日ならば心を曇らせることなく、天に向けて晴れ晴れとした気持ちで主なる神に賛美をささげたらいいじゃないですか。雨の日ならば、じっくり聖書を読む機会が与えられたと思って聖書を読んだらいいじゃないですか。祈り聖書を読むお年寄りに倣って、若い人たちはきっと聖書の中に祈りのうちに、何か優れたものがあるなと思うに違いありません。壮年の方ならば、どうか悪魔ではなくして聖霊に導かれてキリストにふさわしい生活をしていく、その生活がこの世の中にあってお仕事する基盤になるに違いありません。

『そんな苦闘を四六時中ずっとしなければならないのか』と思わないでいただきたい。私たちには、安息日の掟があるではないですか。毎日毎日、来る日も来る日も苦闘ばかりだと言っているのでは無いのです。私たちには主日があるではありませんか。現実に皆さんは今ここにこの別府キリスト教会に集い、安息日を守っているではないですか。安息日とは、主なる神を礼拝し、主の御前で敬愛する兄弟姉妹がたと互
いに喜びあい、慰めあい、励ましあう日です。愛、喜び、平安など御霊の実を下さる神を礼拝して、その御前で、めぐみの内に安息する日であり、私たちは今、安息日を守っているではありませんか。皆さんは6日間の使命、仕事、働きを終えられてこの第7番目の日に、新約聖書では主日として週の初めの日として主を崇め、安息を求めて来られたはずです。そのお心は、主の御旨に全く合致しています。ですから主も喜んでおられます。この後私たちは愛餐会をします、それは主にある兄弟姉妹と共に、互いに安否を問い合い、安息の喜びを分かち合うためです。あるいは悲しみが癒されるよう願って慰め合うために愛餐会をするのであって、この世と同じように自分の食欲を満たすためだけではないのです。まして不満をぶつけたり、喧嘩しあったり、不平を述べる場ではとうていないのです。礼拝と交わりが私たちの霊と心と体に安息、平安、健康をもたらします。そればかりか、病んでいるならば癒しが、弱っているならば強化が、未熟ならば成長、成熟さえ主は下さることでしょう。今日も私たちは、霊肉ともに癒され、強化され、成長される祝福を求めて集いました。そして明日からまた苦闘の六日間を喜んで過ごし、次の主日にはまたこの会堂に集う、この週ごとのサイクルをしていく先に、終末、主が再臨なされて、救いの完成、永遠の命、御国が実現するのです。キリストの福音にふさわしい生活は、まさに救いの完成、永遠の命、御国につながる希望に満ちた喜びの生活なのです。
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キリストをあがめる喜び」ピリピ書講解②
​   2023年11月5日 黒澤俊人勧士

聖書箇所  ピリピ書1章12~20節
中心聖句 。「私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。」同20節

 このピリピ書は、前回お話しました通り、パウロがひいきにしていたピリピ教会に宛てた手紙です。パウロは、一に神様、二にキリスト、三、四が無くて五にピリピ、みたいな思いで綴ったのがこりのピリピ書です。この書簡を読みますと、私はおのずと喜びが湧き上がってくるような、元気をとりもどせる、勇気がわいてくるような気になります。
前回も言いましたがピリピ教会の最初の日、すなわちパウロがピリピに宣教したときのことを思い出します。パウロは、今のトルコ地方の北部のピティニアに伝道のために行こうとしていた時に、聖霊が語ります。「そこに行かずに、こちらに行け」。こちらとはどこか、今のヨーロッパ大陸の東の端マケドニア地方のこのピリピの地が御霊に示された地でした。その時の様子が使徒の働き16章に書かれてあります。ある夜、パウロは夢を見ます。マケドニア地方の人たちが私たちのところに来てくださいと叫んでいる幻を見ました。その幻に示されてパウロは、小アジア(今のトルコ国の西側)から地中海を渡り、マケドニアに行きます。そしてユダヤ教の会堂のない、ユダヤ人があまり住んでいない所、ピリピにヨーロッパ最初の教会を立ち上げたのです。ですから、ピリピ書は確かにパウロが書いたのですが、聖霊に導かれたピリピ教会に宛てられた書簡ですから、このピリピ書はまた聖霊に導かれて書かれた書簡ということができるでしょう。
私たちの教団も開拓伝道に取り組んできました。大概は、ごくわずかの信者がいるところに開拓志望の牧師が遣わされて、正に御霊の働きに頼らざるを得ない状態に置かれた牧師もまた、聖霊の働きを頼りにする以外何もないということを悟って、聖霊に一切を委ねたときに神の力が働き、主イエス・キリストに救いを求める方々を起こして教会が立ち上がっていったのです。

今日も先ほど朗読していただきましたところを、順を追ってみていきましょう。12~14節には
「さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったことを知ってほしいのです。」とあります。
 普通ならば監獄に入れられて、明日は判決が下されて死刑になるかもしれないという不安の中、監禁中にあったのなら、獄屋に入れられたことが、福音の前進に役立つことだと言えるでしょうか。普通なら言えない。パウロは、主イエスキリストの山上の垂訓を思い起こしていたのではと思います。
「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。わたしのために人々があなたががたを罵り、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせる時、あなた方は幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。」マタイ5章10~12節
 パウロは主イエスキリストから励まされて、こうも言っています。「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願うものはみな、迫害を受けます。」IIテモテ3章12節
いにしえの聖徒たちも、迫害を受けた時に、『迫害を受けるほどに、真のクリスチャンになった』と言って、喜びました。
自由な行動が制限され、明日の命もわからない、そのような一般の人であるならば不安の中にいる境遇にありました。けれどもパウロは、
「私がキリストのゆえに投獄されていることが、親衛隊の全員と、他のすべての人たちに明らかになり、兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことで、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆にみことばを語るようになりました。」とピリピの人たちに書き送っています。
パウロもこのところでローマ帝国の獄屋に入れられて喜んでいます。『ああ、嬉しい』と手放しで喜んだわけではないでしょう。もちろん人間的な悲しい感情、孤独感なり閉そく感はあったと思います。しかし主が言われた通り、人々から迫害を受けるときに喜びなさいという主の命令に従って意図的に、自分の自由意志を持って喜んだのです。
 喜んだだけではない。自分の確信が本物であることが証明されて「ますます、大胆にみことばを語るようになりました」と告白しています。事実、獄中にありながら書き記したこのピリピ書が、パウロの確信、ゆるがない喜び、をよく言い現わしています。
だから、パウロは、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」Ⅱテモテ4章2節 と後進の者に命じることが出来たのです。
15~17節
「人々の中には、妬みや争いからキリストを宣べ伝える者もいますが、善意からするものもいます。ある人たちは、私が福音を弁証するために立てられていることを知り、愛を持ってキリストを伝えていますが、他の人たちは党派心からキリストを述べ伝えており、純粋な動機からではありません。鎖につながれている私をさらに苦しめるつもりなのです。」
 この15~17節の三節は、パウロの嘆息のように思います。御霊の実である「愛」「善意」から伝道する者だけでなく、パウロ宣教団の本物の伝道に嫉妬して、あるいは党派心からキリストを伝える人達もいると嘆いているように思います。パウロはキリストが伝えられていることを喜んでいます。その動機が不純であろうとも利己的であろうともまた党派心からキリストの宣教している人がいても、とにかくキリストが宣べ伝えられていることを喜んでいます。
しかし真の伝道になっているでしょうか。伝道とは、キリストが宣べ伝えられることが中心的なことです。しかし真の伝道となるためには、あとふたつ要件が必要です。ひとつは聖霊によるわざであるということです。聖霊の賜物は「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」ですから、伝道もまた聖霊の賜物から現れて来るものでなければ伝道ではありません。ここでパウロが述べているように、不純な動機から、利己心から、闘争心からキリストを伝える事は伝道ではないのです。もう一つの要件はその結果を、父なる神に委ねることです。すなわち自分のために伝道する、お金のために伝道するのは本当の伝道ではないのです。
 私たちも気をつけたいものです。教会として伝道するためには、御霊の働きを求めて、祈ってから伝道にあたるべきです。もちろん救い主、主イエスキリストを伝える活動でなければなりません。そして私たちは伝道した成果を期待しますが、成果にこだわる事はしません。父なる神に、私たちが活動した結果を委ねるのです。それはパウロが言っているように、神があがめられるためです。私たちひとりびとりも、また教会としても、自分たちのためでもなく、またお金のために伝道しているのではありません。神があがめられるためにしているのです。
それでもパウロは、18節で「しかし、それが何だと言うのでしょう。見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝られているのですから、私はそのことを喜んでいます。そうですこれからも喜ぶでしょう。」と記しています。
御霊の働きの二番目に挙げているのが、「喜び」です。いつも喜んでいなさい、とパウロは勧めています。父なる神も御子イエスもお怒りになることが聖書に記されていますが、聖霊なる神は怒ることはありません。聖霊なる神は、主なる神がお怒りになる場合には、悲しまれる。悲しみは、喜びの裏返しと考えると、私たちが普通なら怒るべきことに対して悲しんだらいいのです。普通なら怒るべきときに悲しんだら、私たちには御霊が働くように思います。怒ったら、御霊は共にいない。
 パウロはこの手紙の中で要はキリストが伝えられているのだからと言って喜んでいます。その動機が不純な方々に対しても喜んでいるとは書いていませんけれども少なくとも怒りは覚えていない、キリストが伝えられることを喜んでいるのです。わたしたちもしかり。あらゆる良いことは、みな神から出て来ていますから、私たちに属さない方々が、お寺さんであろうと、神社であろうと良いことをなさっているのを喜んだらいいのです。

19節には
「というのは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の支えによって、私が切に期待し望んでいる通りに、このことが結局は私の救いとなることを知っているからです。」
キリストの救いに与るには、二つのことがあるとパウロは言っているようです。ひとつは、祈りです。私たちの祈りです。この世の人たちも一応祈ることはします。しかし私たちの祈りは、この世の人たちの祈りと決定的に異なるところがあります。それは執り成しの祈りをすることです。この世の人たちは自分の幸せを祈ります。自分の幸せを祈る事は、悪いことではありません。むしろ良いことです。私たちは自分のことを考えて、祈りるのはもちろんのこと、それと共に相手のために、他者のために祈ります。相手、他者のためだけに、己れを犠牲にして祈るのがとりなしの祈りです。主イエス様が、生前この地上に人間として祈られたのもとりなしの祈りでした。そして主イエス様は、私たちが主イエス様と同じようにすることを勧めておられます。主イエス様は、私たちが祈るならば、喜ばれる。そして主は私たちに喜びを与えてくださいます。祈るという喜びです。
祈らない人はキリストと共に居る喜びを味わうことはないでしょう。パウロはこの19節で「あなたがたの祈りが」と言っています。パウロ伝道団は祈る集団でもありましたから、当然祈ります。ピリピの教会はパウロ伝道宣団とは一身同体の教会ですから、ピリピ教会もまた祈る。
「あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心をひとつにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえくださいます。」マタイ18章19節 と主イエス様は言われました。ふたりの個人がそうであれば、二つの集団が心をひとつにして祈るならば、神は必ず聞いてくださいます、そのようにパウロは確信していたに違いありません。
 私たちの教団は、1930年頃、数名の牧師が、自分たちの早天祈祷会に先立って、イスラエルのために祈りました。彼らは早天祈祷会を朝5時からしていましたが、早天祈祷の一時間前にイスラエルのために、もう一時間早く起きて、エルサレムの平和を祈っていました。1930年頃といえば、現在(2023年)のイスラエル国家が再建される以前のことです。エゼキエル書他に書かれている聖書の御言葉の実現、すなわち散らされた、デアスボラの民を主なる神はまた集められる、アブラハムに約束されたあのパレスチナの地にイスラエルの民は戻ってくると預言されている、その預言を信じて、私たちの先達は祈りました。「エルサレムの平和のために祈れ」詩篇122篇6節 とも聖書は記していますから、自分の教会、自分たちの教団のためだけでなく、イスラエルのためにも私たちの先達は祈りました。
『ホーリネスの方々がそう祈ったがために、すぐにヨーロッパにシオニズム運動が起こり、1948年イスラエルは再建国されたのだ』、と評価する牧師、他教団ですが、います。私たちの日本ホーリネス教団の牧師ではない方が言っておられることですから、私たちの先達牧師たちが1930年頃にイスラエルのために祈っていたのは事実でしょうし、1948年にイスラエルが再建国されたのは歴史的な事実です。ささやかですが、私たちの別府キリスト教会も他者のためにとりなしの祈りをしています。ある方は、イスラエルの平和のために祈っています。
 キリストの救いに与る二つめは、「イエス・キリストの御霊の支え」があることです。イエス・キリストの御霊とは、聖霊なる神です。聖霊が働いていない人には喜びがありません。聖霊が宿っていると喜べるものです。みずから進んで、喜んでご奉仕をしている方々を見ていますと、ああこの方には御霊が働いているなと感じます。
旧約聖書創世記には、ヤコブの11番目の子ヨセフの記事があります。ヨセフは父親のヤコブから特別にかわいがられたものですから、ヨセフの兄たちは嫉妬し、父親の見ていないところで人買い商人にヨセフを売りとばし、ヨセフはエジプトで辛い人生を送ります。青年時代の明るい希望に満ちた日々であるべき時期に、パウロと同様ヨセフは監獄にも入れられた。しかし、「主がヨセフと共におられた」創世記39章2、21、23節 ので神はヨセフを守り祝福されました。エジプト王ファラオの夢を解く機会が与えられ、エジプトナンバー2の地位が授かるまでにヨセフは祝福を受けました。ヨセフは能力があったからとは記されていません。また姿が美しかったからとも記されていません。「主が共におられたので」と記しています。エジプト王もまたヨセフの能力ゆえに抜擢したのではなく、「神の霊が宿っているこのような人が、ほかに見つかるだろうか。」と言っています。創世記41章38節 パウロも、ピリピ教会の聖徒たちも、そして私たちキリスト者も、キリストの霊、聖霊が共に居て、働かれるときに祝福があり、神の恵みが、神のわざがなされていくのです。先週も佐藤牧師が語られました、己の義ではない、神の憐みによって生きる私たちです。

そしてそれは究極的には何のためなのかが20節に書かれています。
「私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。」
一言で言うと、『神の栄光のために語り、生き死にするのだ』ということです。「あがめる」と日本語では訳されていますが、原語では『拡大して現わす』という意味のある言葉です。ですから『キリストという宝を拡大して見せ、神の栄光をこの身に浴び、賛美する』というように解するのが良いでしょう。
中国には数千年の歴史をかけて幾多の王朝が収集し保存してきた宝物が、台湾の台北市にある故宮博物院に所蔵されています。その中に小さな石に彫刻し絵付けをされた宝物があります。中国の宝物中の宝物と言われるすぐれた宝物、二度とこのような宝物は作れないだろう宝物です。ごく小さな石に一幅の絵画が極小に緻密に描かれていて、見学者は拡大鏡を用いないと、見えない。拡大鏡を当てると、その美術品の価値がわかり、誰しもがこれは素晴らしいと感嘆の声が上がるのだそうです。
パウロは、「私の身によって」と記し、キリストの価値が、自分が拡大鏡になって人々に見てもらい、キリストの価値が拡大鏡を通して、すなわち「福音を弁証する」パウロを通して、神の栄光を人々に伝える、その喜びに満ち溢れていたのです。また「どんな場合にも」と記し、故宮博物院に行けば必ず宝物が見られるのと同様に、パウロはつねに伝道・宣教のわざに邁進していました。
 私たちも、どんな場合にも確信をもって証しし、伝道し、いつでも大胆に証しし、伝道したいものです。それは私たちの証し、伝道によって人々に福音が伝わり、キリストがあがめられるためです。
 私たちが共に、主を証しし、伝道のわざに励むように、聖霊なる神が共に居て働いてくださるように祈ろうではありませんか。パウロと同様に私も皆さんに申し上げたい、「そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしがどんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。」19節口語訳

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 説教「喜びの指針」ピリピ書講解説教①
聖書箇所  ピリピ人への手紙1章1~11節
中心聖句 「私はこう祈っています。あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。こうしてあなたがたが、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れがあらわされますように。」同9~11節

このピリピ書は、パウロがローマの獄中に囚われの身であった時、神学者は『多分紀元61年か63年』と言っていますが、に書かれ、ピリピから来たエパフロデトという名の信者に託してピリピの教会宛に届けられた手紙です。
 このピリピ書のすごいところは、新約聖書の一書簡、新しい契約の聖書、新しいと言っても、約二千年前に、パウロという伝道者が、ローマからそれも政治犯として投獄されていた時に、ピリピの町にできた教会宛てに書かれた手紙です。
ピリピという町は、現在のギリシャ共和国の北部に位置し、エーゲ海から少し内陸に入った川沿いの土地にあったローマ帝国の植民都市でした。このピリピから東南にエーゲ海を渡れば、今のトルコ、当時は小アジアと呼ばれていた地に行き着く。いわばヨーロッパの東はじ、アジアとの接点とも言うべき都市でした。人口もかなり多い都市で、現地の人とローマ帝国の方々が大半を占め、ユダヤ人はあまり多くはなく、ユダヤ教の会堂も無かったようでした。
21世紀の今は、技術が発達して、ビデオレターとか言って、IT媒体にて永代保存できるでしょうが、そのような技術のない約二千年前の手紙が、こうして残っている。しかも内容が優れているものですから、外人それもギリシャから何千キロメートルも離れた日本人にも伝えられ、日本ばかりか世界各国の言語に翻訳されて、読み継がれてきたのは驚くべきことです。今、二十一世紀、西暦2023年でも読む価値があるからこそ残り、語り継がれているのです。
 価値のあるものは、永く残ります。今日からこのピリピ人への手紙を10回に分けて読み解いていき、この手紙を書かせた主イエス様、語ってくださる聖霊なる神、そして読んだ後には、父なる神に感謝を献げたいと思っています。

 今日のところは、先ほど朗読いただきました通り、1章の1節から11節の部分です。ここは、1節から2節は挨拶の言葉が記され、3節以降は、パウロの祈りの言葉が記されています。
この手紙は、挨拶の言葉から始まっています。挨拶は、大事です。動物には出来ないことです。『おはようございます』、『今日は』、『はじめまして』など互いに挨拶を交わしますと、人間としてのお互いの関係が成り立ちます。いきなり自分の考えや望みを言う前に、面と向かっている相手に挨拶をし、相手もまた挨拶すると、お互いの立ち位置が確認できます。
パウロとテモテがピリピの教会宛てに発した挨拶の言葉もまた素晴らしい。
「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。」
父なる神から来る、平安、シャロームは旧約聖書の神の祝福、そして主イエス・キリストの恵みは新約聖書の新しい契約による祝福、その二つがあなたがた、つまりピリピの教会にありますよ
うにとパウロとテモテは挨拶しています。こう記されると、互いに私たちは、主イエスにある兄弟姉妹の関係にあり、キリストの愛と平安を希求する者同士であることを表わしています。
このパウロとテモテの挨拶は、他の手紙、書簡比べて、格別の親愛感、暖かさ、喜びに満ちた挨拶になっています。

こう挨拶してから、パウロは感謝の表明を記します。
3節には「私は、あなたがたのことを思うたびに、私の神に感謝しています。」とあります。
後の方を読むとわかることですが、パウロはピリピの教会から大きな支援を得ていました。多分宣教、伝道に使って下さいと言って、ピリピ教会はパウロを中心とする伝道団体に献金をしていました。普通なら、あなた方からいただいた献金、有難うとまず言うのが普通ですか、パウロは、「私の神に感謝しています」と神を第一とする姿勢を記しています。パウロは、自分の神がピリピ教会を用いて、宣教、伝道資金を下さっている、そればかりかこの手紙を託すエパフロデトという兄弟は、ピリピ教会からローマにいるパウロ先生のお手伝いをするために派遣された人物でした。ですからエパフロデトを遣わしてくれたピリピ教会に感謝するお礼状でした。しかし、ピリピ教会がエパフロデトを派遣したのも主なる神であることをパウロは認識していたことでしょう。

 次に、パウロは祈りの言葉を綴ります。
「あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、」4節
ピリピ教会のために祈るときには、パウロは常に喜んで祈っています。このピリピ書には16回、「喜び」という言葉が書かれていて、このピリピ書は別名『喜びの書簡』とも言われています。
 実にパウロは、ピリピの教会を思うときに、心は煮え沸るほどに熱い思いがあり、その熱い思いは、冷静な御霊が伴うと、いささか冷やされ、温かい思いとなってあふれ出すのです。それも、神に感謝する形であふれ出しているのです。
 何故に喜んで祈れたのか。5節に書かれています。
「あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。」
パウロは、主イエス様の福音が伝わることに大きな喜びを感じていたからでしょう。パウロは、この世にある物にはさほど価値を見いだしてはいません。見えないものに目をそそぎ、主イエス様を知ることに最大の価値を置いていました。「あなたがたが最初の日」とありましたが、ピリピ教会の最初の日とはいつでしょうか。それは、使徒の働き(使徒行伝)16章に書かれています。
「私たちはトロアス(今のトルコ国の西端にある港町)から船出して、サモトラケ(エーゲ海北部の島)に直航し、翌日ネアポリス(今のギリシャ共和国の北部、エーゲ海に面する港町)に着いた。そこからピリピに行った。この町はマケドニヤのこの地方の主要な町で、植民都市であった。私たちはこの町に数日滞在した。そして安息日に、私たちは町の門の外に出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰を下ろして、集まってきた女たちに話をした。リディアという名の女の人が聞いていた。ティアティラ市(今トルコ西部内陸部にある都市)の紫布の商人で、神を敬う人であった。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた。そして、彼女とその者たちがバプテスマを受けたとき、彼女は「私が主を信じる者だとお思いでしたら、私の家に来てお泊りください」と懇願し、無理やり私たちにそうさせた。」
パウロのピリピ伝道は、御霊に導かれ、ピリピ教会は、なんと一女性の強引とも言える強い信仰者の家庭集会から始まった。
 ピリピ教会の最初の日ばかりか、パウロは自分の最初の日のことも思い起こしていたのにがいありません。かつては、サウロという名のパウロのキリスト者としての最初の日は、なんと言っても主イエスキリスとの邂逅、サウロに主ご自身が現れてくださった、主の顕現です。教会を迫害するユダヤ教徒の急先鋒であったサウロは、ダマスコに新たに出来た教会、イエスはキリストだと言う輩たち、イエス教と言われ、またクリスチャンとも言われる輩たちが集まる怪しからん新興宗教をやっつけるべく、当時のユダヤ教の教師たちのお墨付きをいただいて、何名いたか聖書は記していませんが仲間たちと迫害団を結成し、ダマスコ(今のダマスカス、シリヤ・アラブ共和国の首都)に向かう。その途中、イエス様がサウロに現れなさる。使徒の働き9章1~18節
 この時の実体験をパウロは終生忘れることはありませんでした。ことあるごとにこのダマスコ途上の体験を語りました。使徒行伝には、パウロがこのダマスコ途上体験を語ったことが2回も記されています。使徒の働き22章6~16節、同26章12~18節

 実際に自分の目で、自分の目の前にイエス様を見たならば、信じる信じないという議論など吹きとんでしまう。主イエスキリストの栄光の光とそのお声を見聴きした。神の顔を見たら失明する、旧約聖書はそう教えています。パウロもまたダマスコ途上で主イエス様のお顔みたら失明する。だからパウロはその後、確かに目が見えなくなり、仲間に手を引かれて過ごし、三日経ってうろこのようなものがパウロの目から落ちて、再び目が見えるようになった。
 パウロの神体験は、ダマスコ途上体験、即ち救いの体験に留まりません。いつとは記していませんが、神学者は多分、パウロが荒野に導かれた三年間の間ではないかと言っていますが、主なる神が支配しておられる天を見させていただいたことが、IIコリント12章に記されています。
「私は誇らずにはいられません。誇っても無益ですが、主の幻と啓示の話に入りましょう。私はキリストにある一人の人知っています。この人は十四年前に、第三の天にまで引き上げられました。肉体のままであったのか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りませ。神がご存じです。私はこのような人を知っています。肉体のままであったのか、肉体を離れてであったのか、私は知りません。神がご存じです。彼はパラダイスに引き上げられて、言い表すこともできない、人間が語ることを許されていないことばを聞きました。」
多くの神学者は、彼とはパウロ自身のことであると解釈しています。私もそう思います。実にパウロは天上の世界、パラダイスに引き上げられ、人間が語ることを許されていないことば、神のみが語ることばを聞いたのです。
 主イエス様がサウロに顕現なされたこと、その時以降は、パウロと改名されるようにして名を変え、キリストを伝えるわざをし始めて、彼がまたパラダイスに引き上げられる経験をしたこと、見聞きした神の顕現と神の国の本質は、真の愛でした。神の愛により造られ、この世に産まれ、育てられ、成長され、生かされそして神が、死んでも神の愛の内に入れてくださるという大きな愛がパウロに有りました。
 このパウロに与えられた主の大きな愛は、パウロの伝道・宣教により、ピリピ教会にも伝わり、パウロはわずか数日でピリピを去らなければなりませでしたが、福音はしっかりとピリピ教会に根付き、パウロがローマに収監されても、「福音を伝えることにともにたずさわってきた」のです。5節から8節のところを読みますと、どんなときも、どこにいようとも、この大きな神の愛という福音は途絶えることなく、いなこれからも続いていくことを確信しています。

9節にはこう書いてあります。今日の中心聖句にしました。
「私はこう祈っています。あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。こうしてあなたがたが、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れがあらわされますように。」
愛が豊かになるのであって、愛によって私たちの知識なり識別力が豊かになるようにと祈っているのではありません。善とか礼節とか、良きことはみな神から、神の愛から来ます。悪しきものは、神に反するときに生まれます。欲心は、みなサタンの誘惑に晒され、己だけを考えることにより卑きものに醸成され、それが腐れば、罪となって出てきます。
パウロは愛が豊かになるようにと単純に祈っているのではありません。知識と識別力、この二つの助けによってあなたがたの愛が豊かになるようにと祈っています。
ここで言う知識とは真の知識、良い知識であり、悪知恵ではありません。ずるがしこい頭脳作業でもありません。知識によらない愛は、盲目的であり、盲目の愛は、しばしば己の愛が義だと主張するようになります。そうなると害をもたらすことにもなります。真の知識とは、神から授けられる知識であり、人が考え出した不完全な知識ではありません。この知識は、当然のことながら聖書からしかもたらされません。
また識別力は、善悪を見抜く道徳的な識別力であり、理性的な判断力のことです。悟り、知恵と言ってもいい。
口語訳では、するどい感覚。新改訳2017では識別力。共同訳では、洞察、によって主イエス様に対する愛が深まっていく。英語の詳訳聖書でみますと、「あなたがたの愛が、十分な知識の啓発とするどい見識力、洞察となってますます増大、拡大していくように」、と訳しています。真の知識を用いるときに、この識別力がなくては正しい愛の運用をなしとげることは難しいでしょう。注意したいこととして、たとえ神からの知識、知恵ではあっても、自分の勉強、努力によって得られたものと思ったら、おおにして何か自分が偉くなったように思い上がり、傲慢になりがちになる。私たちは、勉強や努力は大切なことであっても、知恵や知識はあくまでも神からさずかったものと謙虚に受け止める心を常に持っている必要があります。神の愛は、ご自身が謙虚そのものであるように、人を謙虚にするものです。パウロは、キリストの顕現そしてパラダイスの経験を通して、神の愛の莫大な価値を見聞きしましたから、自分の勉強、努力して得たものがちり芥に過ぎないと知り尽くし、おのずと神と人との前に謙虚たらざるを得ませんでした。
 パウロのように、主イエスキリストの顕現は与えられないかもしれない私たちは、しかしながら聖書を通して、福音に聴くことは出来ます。このピリピの教会に宛てて書かれた手紙にも、私たちがだれしも持っている、学習力を活かして深い知識を得ることをパウロはまず指摘しています。つぎにこれもまた私たちが持っている、するどい感覚、識別力、洞察を働かせて、主イエスキリストの大きな愛を知るように、その愛が豊かになるようにと励ましています。
 
主イエス・キリストの愛の大きさ、それはご自身の命をささげる程の大きな愛です。親は子のために命がけで愛します。子供のためなら何でもする親の愛は無償の愛です。主イエス様も、ご自身を犠牲にして十字架の上にかけられて、人々のために命をささげられました。一切の罪の身代わりとなって十字架につけられたのです。

 この大きな愛を知るためには、御霊が働いて、私たちも意識して知識と識別力に傾注することが必要です。そしてこの知識と識別力を得るためには、聖書の御言葉を学び、福音に聴くことが最大かつ最良の方策です。
 ピリピの教会の人たちはもうすでにパウロの伝道によって、この福音に導かれていました。そして導かれるままに今度はピリピの人たちがパウロと同じように伝道宣教にも邁進するようになったのです。そしてパウロの伝道宣教のためにピリピの人たちは多大な献金を持ってパウロの伝道宣教のわざを支援したのです。そしてパウロはますますこのピリピの人たちに親近感を覚え、同じ同労者として福音を共に預かっていることを喜んでいます。この福音の輝きは、今も続いていますし、これからも続いていく。そしてこれからも続いていくためにはこのように鋭い感覚においてまた認識力によって、洞察によってさらにキリストの愛がよりよくわかるように、自分の魂の内にしみるようにしてキリストの愛がわかっていくようにと願っているのです。
 パウロはピリピ教会を熱心に思い、その方々が「キリストの日が来るまでに、それを完成させてくださると、確信しています。」6節 と言い、今の信仰と生活が祝福され、キリスト・イエスの日までに福音のわざが完全する、そればかりか、将来未来までも継続、持続して愛が豊かになり、やがて主からのご褒美として、純真、非難されることなき義、神の栄光と誉を映す存在にしてくださるように祈っています。
 私たちが毎週教会に集え礼拝を捧げるのは、過去に私たちが救いを得たそのことに感謝し、今はこのように礼拝をすることによって力と知恵が与えられ、現在を生きる。今を生きるために私たちは恵みと祝福を神から受けることができるからです。
前回お知らせした通り、ダビデがいつまでも主の家に住もうと賛美したように、私たちは主イエス・キリストがこの地上にご再臨くださって私たちを引き上げ主の御国に住まわせてくださる、その将来の希望に生きるためです。過去に感謝、現在を生きる祝福、そして天に引き上げられる未来を待ち望む希望、その三つを知らしめてくださる聖霊、その三つを叶えて下さる主なる神を覚えたいものです。
今日の聖句は、パウロが喜びの具体的な指針を示し、そうなりますようにと祈り願っている言葉なのです。私たちはこの聖句を神からの指針として、アーメン、そうなりますようにと共に祈ろうではありませんか。

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  説教「主の家に住む幸い」詩篇23篇講解説教⑬
    2023年10月1日 黒澤俊人勧士

聖書箇所  詩篇23篇6節b
「私はいつまでも 主の家に住まいます。」新改訳2017
「私は主の家に住もう 日の続く限り」共同訳
「わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。」口語訳
Through the length of my days the house of the Lord[and His presence]shall be my dwelling place. AMP
今朝は、詩篇23篇6節bの「私はいつまでも 主の家に住まいます」の御言葉から語らせて頂きます。「私は」の「私」は、ダビデのことです。
前回は、「いのちの日の限り」でしたが、ここでは、「いつまでも」とダビデは歌います。将来までも、未来も、否、永遠に、ということでしょう。そしてこの「いつまでも」は、常に、という意味あいも感じます。
どのような過去であろうとも、この詩篇23時を吟じる前までは、いつまでも主の家に住まいます、などとは口に出来なかった。しかし、「主は私の牧者」に始まり「私はいつまでも 主の家に住まいます」この詩篇23編を味わい、歌い終えると、不思議なことに、自分が主の家にいる、いつまでも居ることが確かなことになります。これが賛美の力であり恵みの結果です。
ある教会では、説教よりも会衆賛美の方が時間的に長い礼拝式がありました。一つの聖歌を、ゴスペルソングを繰り返し歌い、もうこのへんでやめて、説教にはいったらいかがなものかと思うほどに賛美していました。
 賛美は、祈りの結晶です。喜んでいる人は賛美せよ、ですが悲しんでいる人も賛美したらいいと思います。いな悲しい時こそ賛美したら、まさに前回お話ししました通り、いつくしみと恵みが追ってきます。
 パウロも、投獄された時、神を賛美しました。その結果、御霊が働き、なんと地震が起きて、牢獄の扉が開放された。
 この詩篇23篇を作詞したダビデも、その苦難の時に幾もの賛美の歌をささげました。詩篇34篇、56篇など。
 ダビデにとって「いつまでも」は当然、現在も、今のこの時も継続中。将来のある一点、未来のある時刻だけを現わしているのではないのです。

 「私はいつまでも」に続いて、「主の家に」と記されています。(口語訳では「主の宮」)
主の家とは、どんな家か。主の家とは、すぐに思いつくのは、神殿のことでしょう。
ダビデは、政治的な王ではなく、祭司王を志向していたと思われます。そうとすれば、是非、神殿を建てたかったことでしょう。ところが主なる神は、『あなたは神殿を建てはならない。あなたの子がそれをなす。』と言われました。歴代誌第二6章8~9節
前回申し上げましたが、ダビダは羊飼いから軍人、軍人から司令官、司令官から王様になった人物です。彼の王権が確立して、一息ついた時に、ダビデはふと思い立ち、主なる神の家を建築しようとしました。主なる神に関することですから、ダビデ王は、その参謀のうちに祭儀に関して仕えている祭司ナタンがいましたので、ナタンに諮問します。自分の考えは、自分では良い考え、正しいとは思っても、祭儀については祭司に聴くことが必須であると思い、ダビデは祭司ナタンに諮問した。独善にならないように、と考えたのは、ダビデの優れた資質です。神の神殿を建てるのは悪くないことですから、祭司ナタンは『ダビデ王様、お心のままに』と即答しました。ところがその夜、神はナタンに告げます。サムエル記第二7章5~16節をご覧ください。
「行って、わたしのしもべダビデに言え。『主はこう言われる。あなたがわたしのために、わたしの住む家を建てようというのか。わたしは、エジプトからイスラエルの子らを連れ上った日から今日まで、家に住んだことはなく、天幕、幕屋にいて、歩んできたのだ。わたしがイスラエルの子らのすべてと歩んだところどこででも、わたしが、わたしの民イスラエルを牧せよと命じたイスラエルの部族の一つにでも、「なぜ、あなたがたはわたしのために杉材の家を建てなかったのか」と、一度でも言ったことがあっただろうか。今、わたしのしもべダビデにこう言え。『万軍の主はこう言われる。わたしはあなたを、羊の群れを追う牧場から取り、わが民イスラエルの君主とした。そして、あなたがどこに行っても、あなたとともにいて、あなたの前であなたのすべての敵を絶ち滅ぼした。わたしは地の大いなる者たちの名に等しい、大いなる名をあなたに与えてきた。わが民イスラエルのために、わたしは一つの場所を定め、民を住まわせてきた。それは、民がそこに住み、もはや恐れおののくことのないように、不正な者たちも、初めのころのように、重ねて民を苦しめることのないようにするためであった。それは、わたしが、わが民イスラエルの上にさばきつかさを任命して以来のことである。こうして、わたしはあなたにすべての敵からの安息を与えたのである。主はあなたに告げる。主があなたのために一つの家を造る、と。あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が不義を行ったときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。しかしわたしの恵みは、わたしが、あなたの前から取り除いたサウルからそれを取り去ったように、彼から取り去られることはない。あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。』」
 主がナタンを通してダビデ王に示されたことは、要約すると三つ。
 一番目は、出エジプト以来、主なる神は幕屋におられ、それは民と共におられるということであり、主の定住する家を建てなさいとは一切おっしゃらなかった。過去の恵みです。
 二番目は、主はダビデの王国、つまりダビデの家を主が建てているのですということ。ダビデが主の家を建てるのは悪いことではないが、今は主がダビデの家系を建てているのだという現在の祝福。
 三番目は、ダビデの前王、サウルは、主によって王権を取り上げられましたが、ダビデの家系はとこしえまで堅く続くと示されました。つまり、未来の希望、この三つが示されました。
神殿建築は、ダビデではなく、その子がなすと、主なる神は明確にしていましたが、何故ダビデではなく、ダビデの子が神殿建設をするのか、その理由は示されませんでした。私たちの神は、ひとりびとりの存在とその自由意志を大切にされます。特に主なる神に忠実な者には格別のご配慮をなさいます。それは、良い羊飼いが自分の羊を大切にするのと同じです。主なる神は、ダビデを憐れみ、この時には、何故ダビデが神殿を建ててはならないかを示されなかった。ダビデの素晴らしいところは、神殿を建てるのはあなたの子孫だと主が言われたことに対し、素直に従い、かつ主に感謝を献げていることです。同7章18節以降に、ダビデがどう主なる神に応答したかが記されています。
第一に、自分はしもべ、羊にすぎないのに、哀れんで下さった、過去の恵みに感謝しています。
第二に、主の民、イスラエルをこの者が良い羊飼いとなって導く主のわざに与る幸いを告白しています。
第三に、主が自分の家系、ソロモンに続いていく家系、その家系はとこしえまでも続いていくという祝福を信じています。ダビデは満願の思いで、その通りになりますようにと祈っています。
 ダビデの応答は、聖霊が働いてこそ出来た応答であり、聖霊に導かれて実現した真実でした。私たちも、しばしば主イエス様の思いが示されることがあります。その時に御霊に導かれ、御霊の助言、すなわちその時に語られる聖書の御言葉に従ったら良いのです。『神様、何故なのですか』と言わず、『主よ、あなたの御旨のままに』とか、「御言葉がなりますように』と言えばいいのです。理由は後で主ご自身が、あるいは使者を遣わして示してくださいます。
 神殿建築はダビデがしない具体的な理由は、ダビデには、平安の実がなかったからです。
「あなたは多くの血を流し、大きな戦いをしてきた。あなたがわたしの名のために家を建ててはならない。わたしの前に多くの血を地に流してきたからである。」歴代誌第一22章8節
ダビデには、主の霊が豊かに働いていましたが、サムエル記第一16章13節 主の霊の実である平安は無かったようです。神の愛はありました。喜びもありました。慈愛、寛容、忠実、柔和もダビデは身につけていました。自制の実は、羊飼いの時にすでに自分のものにしていた。ダビデには、平安、シャロームだけが無かった。ダビデは、若くして羊飼いから軍人になり、戦いの日々。平和を作り出すことは無かった。毎日が戦いの連続。眠る時だけが休息のひと時みたいな生涯でした。
 だから、ダビデは、バテシバが産んだ二番目の子をソロモン、平和(シャローム、平安から派生する平和の意味と、シャラン、償いを意味する、を兼ねて、ソロモン)と名付けた。
私は、長年建築会社に勤務していましたから、よく分かるのですが、建築現場で争いや対立がありますと、工事はうまくいかない。大きなところでは、設計側と施工側の対立、使用機能と意匠の争い、現場と近隣住民の対立。小さいところでは、作業員同士の争い、現場監督と職長間の対立などなどがあって、平和が保たれていませんと建築のわざは進みゆきません。まして平安の象徴である神殿建設は、羊飼い転じて軍人になり、敵と戦うダビデには不向きなことでした。というよりダビダに神殿建設をさせないのは、神の深いあわれみではないかと思います。

「主の家に」に続いて、み言葉は「住まいます」と記しています。
「住まいます」ですから、旅行するのとは違う、日々の生活を営むことです。
この世の旅路と、よく言われます。聖書にも、「地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。」ヘブル11章13節 とあります。
 私たちキリスト者の生涯は、この地上では、旅から旅のような日々だと聖書は言っています。最初のところで「いつまでも」とありますから、いつまでも住まいます、とダビデは言っているのですが、考えてみれば、いつまでもこの世に住むことはできませんから、ダビデは自分の子々孫々まで住むということか、あるいはこの地上だけでなく、あの世でも主の家に住むということでしょう。
ダビデは、自分のみならず、自分に与えられる子孫もまた、この世ばかりかあの世でも、主の家に住みます、と賛美したように感じます。
ダビデには、複数の息子たちがいました。名前の記載があるのは7名。ダビデは、どの子も愛していましたが、とりわけバテシバの子ソロモンを愛していました。溺愛といっても過言ではない愛し方でした。しかし自分の後継者としてソロモンにするという公表を伸ばしに伸ばしていました。年を重ね老人になっても父ダビデがなかなか後継者を指名公表しないものですから、四男のアドニヤは、自分が王になろうと思い、事実、アドニヤは自分が王だと宣言すべく、ソロモンを除く在生中の異母弟たちと支援者たちを集めた宴席を設け、そこで「私が王だ」と宣言することを計画した。その計画が行われたのを聞きつけた預言者ナタンが、即、老王ダビデに注進して、初めてダビデはソロモンを次期王に指名したことでした。列王紀第一1章1~40節 ナタンはじめ祭司たちが「ソロモン王、万歳」という高らかな囃子言葉に呼応し、イスラエルの民もまた歓喜の声をあげた。その響きに、兄弟たちと支援者たちは蜘蛛の子を散らすように解散し、四男アドニヤはわなわなと震え恐れ、慌てて神殿に行き、「祭壇の角をつかんだ」そしてソロモンの、ソロモン王の許しを期待して、祭壇の角をつかみ続けた。ソロモン王は、平和の君の精神を発揮し、人を遣わし、アドニヤを祭壇から降りるよう促し、アドニヤはソロモンに謁見し、平身低頭して許しを請うと、ソロモン王は、アドニヤに「家に帰りなさい」と言い、治世の最初を流血で染めることを避けた。まさに平和の君たる資質を示しました。
ダビデは、このソロモンの祭司王たるふるまいを聞いて、己のこの地上での使命は終わったと悟ったことでしょう。この記事、列王紀第一1章、の後同2章は、「ダビデの死ぬ日が近づいたとき」と記し、ソロモンへの遺言が書かれています。
詩篇23篇6節bの「私はいつまでも 主の家に住まいます」と真底、神を賛美するのは、やはりこの王位承継のわざを完了させてからでないと賛美できないことだろうと思います。そう考えると、この詩篇23篇は、最晩年にダビデに仕えた女性アビシャグに添い寝しながら、息を引き取る間ぎわに、「主は私の羊飼い」に始まる詩に、「私はいつまでも 主の家に住まいます」と最終加筆した賛美ではないかと思います。詩篇23篇は、ダビデの全生涯の告白であり、最後の語りでもあり、かつ天に凱旋する宣言とも言える賛美なのです。
私も、この世を去る日まで、心から「私はいつまでも 主の家に住まいます」と主なる神を見上げて日々賛美したい、と思います。
私たちの主イエス様はこう言われます。「わたしの父の家には住むところがたくさんあります。そうでなっかたら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」ヨハネ14章2~3節
 私たちが、今こうして教会に集い、礼拝をささげているのは、良い羊飼いである主イエス様が、私たちをその羊としてくださったことを感謝し、今は聖霊なる神が私たちに知恵と力を授けてくださる祝福を味わい、そしてダビデ王が「いつまでも主の家に住まいます」と賛美したように、私たちも過去、現在のみならず、将来をも導いてくださる主なる神を賛美するために礼拝しているのです。

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  説教「追ってくる恵み」詩篇23篇講解説教⑫
   2023年9月17日 黒澤俊人勧士

聖書箇所  まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。詩篇23篇6節a
 「私のいのちの日の限り」とあります。ダビデは、羊飼いの仕事から軍人になり、司令官に引き上げられ、そしてイスラエルの王となり、日々戦いの生涯を送った人物でした。「まことに、私のいのちの日の限り」と賛美した時に、おそらく『今日は敵の攻撃をかわして、戦い終えたが、明日はどうなるかわからない。しかし自分の命の限り、主なる神を見上げて戦いにいそしむのだ』という思いがあったに違いありません。また、主なる神から授かった能力、権力を行使する上で、自我の心、欲心、高慢との戦い、内面的な戦いにも勝利する、内面的ないのちを保っていく、いのちの戦いもあったに違いありません。いずれにしても、楽な戦いばかりではありません。むしろ、厳しい、いつ倒されるかわからない、まかり間違えれば戦死する、苦難の日々でした。ダビデは、自分のいのちを授かった主なる神を見上げ、主体的に主なる神に従い通した人物でした。まさにいのちを賭けて主に従い、いのちをささげて戦い通した人物でした。
 わたしたちも、今「いのちの日」のただ中にいます。ダビデが主なる神を見上げていのちを賭けて戦いました。「ダビデの子、イエス・キリスト」マタイ1章1節 と記された主イエス様も、「いのちの日の限り」父なる神の御旨に従い、苦難の日々を過ごされた方でした。わたしたちは、主イエス様が私たちにいのちを授けてくださり、生かされていることを忘れずに、いのちの限りに戦いまた賛美していきたものです。
 私は長い間衛生管理者として、建築現場の労働環境保持に努めて参りました。労働環境を良好に保つには、体に必要な酸素の量、これがひとつの目安になります。空気中には20.9%の酸素が含まれており、この酸素が肺臓を介して、血液中に取り込まれ、他の化学物質と反応して、エネルギー、熱を発生し、人間の体を動かし、健康を維持しているのです。人類の体は、空気中の20.9%の酸素比率に順応した身体の仕組みになっています。活動に応じて、私たちのからだに、20.9パーセント濃度の空気を必要な量だけ肺に取り入れないと、身体全体の動きが悪くなったり、壊れたりします。
 霊のからだにとっても同様に、適切な濃度の神の息を、必要な分取り入れませんと、私たちの霊は、病んだり、壊れたりします。霊のからだがよく動かなかったり、動きが鈍いのは、聖霊の息吹を十分に吸い込んでいないからです。

その後、今日の聖句は、「いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。」と続きます。
主のいつくしみと恵みは、自分が追いかけて獲得するのでなく、主のいつくしみと恵みの方が、自分を追いかけて来ると言っています。「来るでしょう」とありますが、『多分来るでしょう』ではない、必ず来るのです。
良い羊飼いの下にある羊たちは、自分が特権的なところにいるということを確かに知っています。どんなことが起ころうとまたいつでも、いつくしみと恵みがその状況の中に見えていることが確信できます。羊はいつも健全な、同情的な、かつ賢明な所有者、良い羊飼いのもとに居ることで心を安んじています。一体それ以上何を心配することがあるでしょうか。いつくしみと恵みとが、主人の専門家としての、愛のある主から受け取るものなのです。このように言うと大胆に聞こえるかもしれませんし、また自慢めいた事でもあります。羊たちの歩みと行く道を支配するお方への、内に秘めた確信の叫び声です。
ダビデが、「いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。」と言ったのは、『いつくしみと恵みはそのうちやって来るかもしれない』ではないのです。また『いつくしみと恵みは、主のご意向のままであって、わたしに来るかどうかわからないけれど多分来るだろう』というような不確かなあるいは希望的な予測ではないのです。神とダビデの愛の深い関係、日本語的にいうと絆、つまり神がダビデをこよなく愛し、ダビデが愛なる神に全く従う双方向の強い絆からくる「いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。」なのです。神からの自分に対する「いつくしみと恵み」は必ず追ってくる、いなもう身近に迫ってきている、主なる神が先陣を切って進んでいる、ダビデはその跡に従い戦っている、いつくしみと恵みがダビデのすぐ跡に迫ってきている、そんな激戦の光景。まず主なる神、次にダビデ、そして追従するいつくしみと恵み。霊の戦いに連なる隊列を見るような光景です。

 キリスト者のうち何人が、キリストが良い羊飼いであると心底感じとっているでしょうか。一生の間に何が起ころうと、いつくしみと恵みが追って来ると確信しているでしょうか。私たちはみなだれしも、全てが順調に運んでいる時に、このように賛美することは容易です。健康に優れ、充分な収入があり、家族も幸せ、友達も沢山いる、そのような幸いの中では、まことに、いつくしみと恵みが追ってくると言うのはたやすいことです。しかし、病気になったら、同じように賛美するのはむずかしい。解雇されお金がなくなったら、子供たちが悪に染まったら、慈しみと恵みが追ってくるとは賛美しにくくななる。そのような災いや、病の時、人に頼るあるいは、自分でなんとかやっていけると考えてしまいます。私もかつては、自分でやろうとして、癒し主でもある主イエス様を締め出してしまいました。
 こういう時は、キリストの配慮への信頼を試されているそのような時であります。切羽詰まって、人生が信仰深い平静さばかりではなくなる時があります。私の小さな世界がバラバラに崩れていき、私の大きな望みや、希望の楼閣が崩れ落ちて廃墟になるような時、私は正直に言ってそうです。確かにいつくしみと恵みが、私のいのちの日の限り私を追ってくるでしょうと言えなかった。望みが消えゆく時に、大切なものを失った時に、いつくしみと恵みが私を追ってくるでしょうと、神に向かって賛美することができるでしょうか。限りある人間として、その小さい理解力では、主が無限の知恵を持って実行されたお取り扱いをいつも理解できたわけではありません。人間には生まれながらの恐れ、心配、そして『なぜ』と質問する傾向があります。主なる神が私をどうしようとしているのかを、主ご自身はよく知っておられると信ずるのは容易いことではないのです。多くの場合人間は、そのような苦難に陥り、神がわからなくなったときに、自分に頼った方がうまく生き残れるという考えに陥りやすい。しかし神の愚かさは人の賢さよりももっと大きいものです。自分に頼るという考え方は、神の目から見ると愚かであり、こっけいでさえあります。しかし人間のそのような愚かな滑稽な考えに基づいて行動するにもかかわらず、主なる神が私を見放さなかった事は嬉しいことです。私たちが、主を見捨てても、主は私たちをお見捨てにはなさらないのです。”ありがたい”の一言につきます。
「求めよ、さらば与えられん」という御言葉がある通り、神の恵みは求めて、自分の方から求めて与えられるものと理解していました。確かに、私が求めて、神が私に恵みを下さったこともありました。しかし、私のこれまでの経験を振り返ってみると、ダビデはこの詩篇23篇の賛歌の如く、まことの神のいつくしみと恵みは私に迫ってきていたのだと思うようになりました。実にいつくしみと恵みをもって、私を追ってきてくださいました。なぜそのように主はなさるのでしょうか。その最大の要因は、主なる神の良い羊飼いとして、羊の群れの一頭としての私に対する主なる神の配慮と関心の賜物です。私の疑いにもかかわらず、私のことについて最良のお取り扱いをしてくださったことに、私は気がつかなかった。あるいは誤解していたのです。
主なる神は私を拾い上げ、大きな包容力で私をもとに戻してくださいました。このようなすべてを振り返ってみる時、誠にキリストの支配の中にある者にとっては、実際にどんな困難が起こり、ジレンマが生じ、いかなる災難と思えるようなことが襲ってきても、究極的には必ずその混乱の中から、最善が起こることに気がつきます。これが人間の人生において、主なる神のいつくしみと恵みを見るということであり、私の主なる神への信仰と信頼の大きな根拠になっています。
 私が主を愛するのは、主がまず私を愛してくださったからです。主なる神の私に対するいつくしみ恵みは、日々新しい。私の確信は、主なる神の、このご性質に支えられています。私の信頼は、主なる神ご自身の所有物である私への主なる神の愛に置かれています。私が平安でいられるのはどのような状況が起きても、適切かつ最善のことをしてくださるという主なる神の愛のゆえです。いかなる状況の中にいてもゆるがされることがない、そう私は確信しています。絶えず主なる神のいつくしみと恵みが私のところに流出してくる。前回、私の杯は溢れますと申し上げました、私という杯には主のあわれみと恵みをいただく資格はありませんけれども、主は惜しみなく、主なる神ご自身の大きな愛の心から来るいつくしみと恵みに溢れさせてくださるのです。この詩篇23篇の中で述べられていることの核心的な部分は、この神の私たちに対するあるいはダビデに対する大きな愛のゆえです。主はすべてを配慮され、すべての働きをなされ、抜かりのない注意力、すべてのことにおいて熟練され、すべてに関心を持たれ、そして自己犠牲の極みをなされました。それはみな主ご自身の愛から来ています。
羊が後に残すものはなんでしょうか。糞ですが、肥えともいい、羊の糞は、豆粒のように排出され、他のどんな家畜の肥よりも、バランスがとれています。羊は地面の一番高いところで休もうとするため、低地の地味の豊かな肥料が、生産力の小さい高いところに積み直されることになります。良い羊飼いは、羊たちが好みの草を根元まで食いつくさないように、定期的に草場を変えていき、羊の肥が満遍なく牧草地にばらまかれるように羊たちを導いていきます。そうすると、その地域の土壌を改良することになります。良い羊飼いの綿密かつ継続的な管理により、羊は他のどの家畜にはできないほどに、荒れた土地を清くし、回復させます。放し飼いのような誤った管理をするならば、羊は土地を破壊します。羊の群れが身勝手極まる状態にしておくならば、土地を破壊し、荒野に変えてしまうのです。ある牧羊家は、破壊された牧場を買い取り、良い管理手法の下に羊を飼い、二、三年の内に生産力のある牧場に変えることができたそうです。以前はどうしようもない荒地が、綿密かつ粘り強く羊たちを管理した結果、美しい公園のような緑地になったそうです。その光景を見て、この牧羊家は、『いつくしみと恵みが自分の羊たちについて来た。羊たちは、羊たちのためにも、また牧羊家のためにも、他のためにも、後ろに価値があり生産力の高い大地を残した。』そう感じたそうです。そうだろと思います。
ダビデも同様に「いつくしみと恵みが」自分の羊について来たと感じたことでしょう。実に、良い羊飼いの元にある羊たちの後に、価値、豊かさがもたらされたのです。まさに、いつくしみと恵みが、ダビデを追って来たのです。
主イエス様ご自身がこう言われます、「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。」ヨハネ10章11節
使徒ヨハネはこうも記します。「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛がわかったのです。」ヨハネの手紙第一3章16節 この御言葉を聴き、思考をめぐらすと、私は自分自身にこう問いかけざるを得ません。
『このように主ご自身から私のうちにいつくしみと恵みが流れ、注がれるのは、私が自分の生活の中にそれを留めておくだけのことだろうか。その恵みといつくしみは私を通って、他の人々に益を与えるために渡されているのではないだろうか。私を通して主なる神の恵みといつくしみを他の人々に手渡すために、主は私にこの恵みといつくしみは注がれているのではないか。今度は、私の生活が、私の働きが、他の人々の幸せのために、私の歩む足跡にいつくしみと恵みをとっていくようなものとなるべきであり、積極的な実際的なものとなるべきだ。』
そう考えざるを得ないのです。私の生きる年月の間、主なる神のいつくしみと恵みが私のところに注がれ、私の後にも残されて、他の人々への遺産となるはずです。
 羊が良い羊飼いの管理下にあって、良いものを残したように、私は、良いものを残しただろうかと反省させられます。クリスチャンは、主イエス様の管理下にあるならば、必ず御霊が共にいてくださり、私たちの家族に、隣人に、恵みを残すことができます。逆に身勝手な生き方をする、つまり神の管理を無視する者の後には、荒野のような破壊がもたらされます。

 私たちはたいてい、神だけが私たちに祝福をもたらすと思っています。キリスト者の生活は、二方向に向かう事柄です。ある牧羊家はこう言っています。
『私の羊が栄え、元気でいることを見るほど私にとって嬉しい事はありません。それは私自身を、この上なく喜ばせ、私が彼らのために世話をしたことが充分報いられたように感じさせる。彼らが満ち足りているのを見るのは素晴らしいことです。土地が役に立っているのを見るのは、美しいことです。このふたつが一緒になって私を幸福な人にします。それは私自身の生活を豊かにし、私の努力と労力への報いでもあります。この経験の中で、私は一所懸命に力を注ぎ出したすべての努力に対する報いを十分に受けました。私たちは大抵、牧者である方が、同様にある満足を求めておられることを忘れています。主はご自身の魂の苦しみをご覧になって満足されたと私たちは教えられています。』
これが、私たちの主イエス様の御もとに携えていくことのできる益なのです。主は私たちを深く愛しておられるので、私たちの生活をやさしく見つめておられます。主は、長い間たゆむことなく、主のいつくしみと恵みが私たちについてくるのをご覧になっておられます。主は、その同じいつくしみと恵みが、ただ他の人に伝達されるだけでなく、それが喜びを持って主の下に戻されることを見たい、と思われます。主は愛を、私たちの愛を求めておられます。私たちは主を愛します。それはただ、まず主が私たちを愛してくださったからです。それで主は満足されるのです。

良い羊飼いの管理下にある羊たちは、自分たちが特権的な立場にいることを、しかと承知しています。どんなことが起ころうとも、いつでも、いつくしみと恵みがその状況の中で見えている。きよい、愛情のある、賢い羊飼いの所有のもとで育み養われる羊たちは、心身ともに満たされて、何も心配することはありません。
 教会に集うキリスト者もしかり。主イエス様の贖いのわざにより、父なる神の愛を知り、あらゆる分野でエキスパート、専門家である聖霊の助言を、主体的に受け止め働くキリスト者に、主の慈しみと恵みが必ず追ってくるのです。
私たちの感性に心地よい神のみ恵みを受けるだけでなく、自分に都合の悪いことであっても、それが神の御旨と、あるいは神の祝福として受け取る、その恵みとして、その祝福に与る感謝の心をダビデは「いつくしみと恵が、私を追って来るでしょう」と賛美し、言い表したのです。
 主イエス様も言われました、「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしは、すでに世に勝ちました。」ヨハネ16章33節b
使徒ヨハネはまたこうも記しています。「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか」ヨハネの手紙第一5章5節 主イエス様は、私たちに先立っておられるのです。
 私たちの別府キリスト教会も、苦難の中にいるように思います。牧師がいない、集まる信者は少ない、かつ高齢者ばかり。しかし立田町、別府市内には「わたしの民が大勢いる」と主は言われ、私たち別府キリスト教会に主は期待しておられるように思います。私たちに先立っておられる主イエス様に付いていくしか方策はありません。ダビデが苦難の戦いの中でも「私のいのちの日の限り」と賛美したように、私たちも、この地上で活かされている間は苦難の中でも主イエス様を賛美しようではありませんか。いつくしみと恵みとが、私たちを追って来るでしょう。必ずいつくしみと恵みは私たちを追ってくる、それは必然なのです。先頭に立たれる主イエス様、付き従う私たち、そして私たちには必ずいつくしみと恵みが必ず追って来るのです。

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「聖霊にあふれる杯」詩篇23篇講解説教⑪

   2023年9月3日 黒澤俊人勧士
聖書箇所  聖句:詩篇23篇5節c
  「私の杯は あふれています。」新改訳2017
  「わたしの杯はあふれます。」口語訳
  「私の杯を満たされる。」共同訳

先ほど、『~数えてみよ主の恵み~』(新聖歌172)、と歌い、主を賛美しました。心から賛美されましたでしょうか。
今日の聖句、口語訳では、「わたしの杯はあふれます。」、共同訳では、「私の杯を満たされる。」そして新改訳2017では「私の杯は あふれています。」となっています。今日は「杯」という単語をキーワードとして、「聖霊にあふれる杯」と題して、私たちクリスチャンは、あるいは教会に集う私たちは、主の恵みを数えるばかりか、聖霊に満たされるそれも、あふれる程に満たされる、神の祝福を覚えたいと願っています。
杯に限らず器という物は、人が飲食をする際に用いられるものです。
ダビデは、杯については、「主は私への割り当て分、また杯。あなたは私の受ける分を堅く保たれます。」詩篇16篇5節と別の詩篇を歌い、主なる神ご自身が与えてくださる嗣業、割り当て分、受けるべき分であると捉えていました。そして私という杯に主ご自身を拝戴するものと理解していました。
この詩篇23篇では、ダビデは、自分の杯は溢れていると言っています。杯が溢るとは、いったい何によって溢れるのか。旧約聖書の世界では、葡萄酒かなと思います。ダビデの生涯を省みてみますと、ダビデの杯に主なる神が注いだのは、高級ワインだけではなかった。まずい酒も、甘いジュースも、ときには冷たい真清水もあったことでしょう。

 居酒屋には、あまり行かなかった方ですから、よくわからないのですが、居酒屋の主人、個人経営者は、毎晩のようにして来るいわゆる常連さんに対してコップ酒をふるまうそうです。ガラスのコップと陶磁器の受皿を用意し、コップになみなみと、受け皿に溢れるほどにつぎます。常連客は、なみなみとついがれたコップ酒を取り上げ、受け皿の方からすするようにして飲む。ついで、コップの方の酒をこぼれないように、口先に近づけ、口をコップに近づけるようにして一口飲む。コップ一杯どころか溢れる酒を店の主人はサービスしてくれる。ふるまいを受けた客は、常連客として扱ってくれたと嬉しくなる。店の主人の方でも、また来てくれる、いわゆるリピーターとしてもてなす心いきがあるのだそうです。
酒は、良いものであり、また過ぎれば悪いものになります。
 ある牧羊家も、常にブランデーを用意し、季節を問わず、急激に気温が下がる時、羊たちに、水割りしたブランデーを少量のませるそうです。ブランデーを含めた酒類には、エチルアルコールがあり、これは胃で約20パーセント消化され、残り80パーセントは循環器系統つまり血液に入ります。エチルアルコールは、体内備蓄されないことから、飲んだらすぐに、エネルギーつまり熱を発する。体がほてり、急激な気温低下に即対応できる。羊に限らず、この低気温対策としての酒類少量摂取は、寒い地域に住む人々には、生活の知恵でもありました。杯に少し葡萄酒をつぎ、少し飲む、それが健康の秘訣です。日本には古来ワインという酒がありませんから、清酒でも濁酒でもやはり少量飲むのが最良と言っていいでしょう。酒は、過ぎれば人の内面性を麻痺せさ、自制が効かなくなる、いわゆる酔っぱらう。自分が自分でわからなくなる、いわゆる泥酔にまでいたる場合も大にしてあります。しかし、喜びの賛美は、心にも、霊にも精気をもたらします。
 ダビデが「私の杯は あふれています」と賛美したのは、心が、魂がいつも満たされていると歌ったのです。何ゆえに、心が満たされたか、もちろん、主なる神が自分を、この者を祝福という酒で、心という杯を満たしてくださるということでしょう。もうひとつ考えられることは、ダビデは羊飼いとして四六時中、羊たちの面倒を見、その羊たちを高地に導き、昆虫の害から守りぬき、羊たちが草をはみ、静かに身を横たえるのを見て、言いようのない喜び、それまでの苦労が報われた思いから、「私の杯は あふれています」と賛美したのでしょう。
 私たちの主イエス様は、杯について的確な理解をしておられました。人となられた主イエス様も、杯というものが、人にとって必要な器であることを知っておられた。
弟子たちの内、実の兄弟であった二人の弟子がいました。その母親が、息子二人ともに、息子たちの師匠であるイエス様のところにやって来て、息子たちを指導しておられるイエス様ですから、平伏して『お願いがあります、聞いてくれるでしょうか、聞いてくださらなくとも構いません』とは聖書には書いてありませんが、母親は、平身低頭してお願いした。イエス様は、「何を願うのですか」と言われ、母親は「私のこの二人の息子があなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左に座れるように、おことばを下さい。」と言った。それに対してイエス様は、母親と二人の弟子に向かいこう答えられた。「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」と逆質問した際に、「杯」イエス様ご自身が飲む杯のことをおっしゃられた。マタイ20章22節 二人の弟子は、「できます」と答えたけれども、主イエス様が飲もうとしている杯、その杯に注がれる酒がどのような酒であるかわかっていませんでした。それでも主イエス様は深く彼らを思いやり。「あなたがたはわたしの杯を飲むことになります」と言われました。イエスキリストの弟子は、十二人。この二人の弟子とその母親と師匠イエス様とのやり取りを、他の十人の弟子たちもその現場にいて見聞きしていました。
 主イエス様が飲もうとしている杯はどのような杯でしょうか。
それは、十字架の苦しみ、死の苦汁、自己犠牲の極みに満ちた杯でした。
 主なる神がダビデの杯になみなみと注がれたように、私たちの主イエス様も同じように、私という杯に、聖霊という酒をなみなみと注がれます。
 主イエス様の最初のしるし、奇跡と言う方もいますが、は何と葡萄酒が切れてしまった宴会で、極上のワインを水から作られたというしるしをなさいました。
また最後の晩餐にも杯を取られたことが書かれています。最後の晩餐に十二弟子は自主的に参加しました。主はこの十二弟子の他に、72人の弟子たちを任命していたが、彼らは過越の祭りを彼らの家族と共に祝ったのでしょう、この最後の晩餐には加わらなかった。主イエス様は、家族をも捨てる覚悟で付き従って来る十二弟子のために、過越の祭りを開催され、その席で、主イエス様ご自身が最初の聖餐式を挙行された。そのとき、「みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」と言われた。
 良い羊飼いが羊たちのために、用意周到、綿密なかつ不断の世話をするように、主イエス様は、私たち羊に溢れるばかりの恵みと祝福をくださいます。私たち羊の方は、神の祝福と恵みをご自身の杯に受けているでしょうか。
 主は、「この杯を過ぎ去らせて下さい」とゲッセマネの園で、祈られましたが、血の汗を流されました。しかし、お祈りの最後は、「御旨がなるように」と言われ、十字架の死という、自己犠牲の極みであり、それはまた父なる神の悲しみの極みでもありました。
 親子が断然することこそ悲しいことは他にありません。
 血判の誓いというのがあります。しかし主イエス様と父なる神のこのゲッセマネでの祈り、汗が血のしたたりのように流れた、この祈りは血流の誓い、主イエス様の杯に、父なる神はなみなみとご自身の悲しみの酒を注がれた。
 献げたものだけが残ります。献げるには苦難が伴いますが、献げきるならば、必ずその犠牲の働きは残ります。主イエス様は、すべてを献げられました。ご自分のいのちを、神の子の血潮が流され、その血はアベルの血よりも強く叫び、いのちの源なる父なる神に届きます。目には目を、歯には歯を、いのちにはいのちをもって贖いがなされました。その尊い血潮、主イエス様が苦汁の杯を飲んでくださったからこそ、今の私たち、教会があるのです。私たちも献げるわざに勤しもうではありませんか。

パウロは愛弟子テモテに、たまには葡萄酒を飲むべしと言っています。「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のために、少量のぶどう酒を用いなさい。」Iテモテ5章23節 この少量のぶどう酒が重要です。
 ところが、酒を少量にとどめ、食事にかかるのは現実的にはかなり難しい。御霊の実である自制を働かせて、具体的な量をあらかじめ決め、自主的に決めておく必要があります。自分勝手な方はまずできないでしょう。それが出来ない方は、禁酒をお勧めします。やはり、「酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである」 エペソ5章18節口語訳 を遵守するため、酒類は極力飲まないことをお勧めします。
エペソ人への手紙を先ほど語りましたが、その聖句の後半は、「むしろ、御霊に満たされなさい。」新改訳2017 と続いています。 私たちの霊は、心も体も同様だと思いますが、聖霊以外のもので満たされることはありません。お金で満たそうとする、酒でごまかそうとする、娯楽ですまそうとする。けれども霊には何の安らぎをもたらしません。霊は霊的なものでしか満足することはないのです。霊的に言うならば、杯は心、容れる酒は御言葉という酒です。
御霊、聖霊ともいう、この酒は、実のところは酒類、アルコールではなく、真清水です。きよい杯にのみ注がれます。真清水をいただくためには、杯に何か酒なりジュースなり、混ざりものの液体が残っているならば、それらを捨てて、杯の内外を洗い、きれいな器にしてから注ぐ。父なる神が、私たちという杯に聖霊の真清水を注がれるには、私たちみずからが、自分の杯を洗いきよめておく必要があります。主イエス様は、外側、形式にこだわるパリサイ人が食事の際に清めの儀式を行わないイエス様をとがめた時にこう言われた。「なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や皿の外側はきよめるが、その内側は強欲と邪悪で満ちています。愚かな者たち。外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか。とにかく、内にあるものを施しに用いなさい。そうすれば、見よ、あなたがたにとって、すべてがきよいものとなります。」ルカ11章39〜41節
心の内にある罪、汚れ、聖霊がお嫌いになる、肉のわざ、淫らな行い、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、妬み、泥酔、遊興などなどを取り除くことです。聖霊という真清水で満たされる方は、幸いです。ダビデと同様に、「私の杯は あふれています」といささか躊躇ぎみでいいとも思います、そう賛美しましょう。
 主が日々満たしてくださる杯を日々飲みほす。残すと腐る。こぼすと満たされない。きっちりと飲みほす。時々、私たちは勘違いして、酒の量が足りないと疑う。それは霊の目がおかしくなっているからでしょう。
 風は思いのまま吹く、でも聖霊というお方は、この世に充満している。強風だから聖霊は強く働き、弱風だと働きが弱い、無風だから聖霊の働きはないということではない。私たちの霊的感性に問題があるのです。風がないのであれば、私たちに与えられた呼吸器機能を働かせて、肺には不随意筋ばかりでなく随意筋もありますから、大きく息をして風を吸い込めばいいのです。つまり、意識的に聖霊を祈り求めればいいのです。
 御霊は、一人びとりの生まれてこの方、現在、そして将来を知悉しておらる。ところが私たちは、この世の主権者サタンに拐かされ、過去を忘れて、将来の希望を削がれ、今だけを生きる思考に囚われている。動物を観察していると、動物の自己意識は、今だけを生きるに必死のように見える。確かに人も、今この瞬間を生きている。しかし、人には過去の事柄から今を生きる知恵が与えられ、有って有るものと言われる神の約束、永遠という世界に入れられるという将来の希望に生きることができます。
 私たちは、主イエス様の贖いのわざにより、救われ、神の支配なさる天の御国に、御霊の助けを得て、進む道にいます。主イエス様の信仰と天に引き揚げられる希望に、私たちの杯は満ちています。あふれています。あふれて飲めない分は、他の方に分け与えるのがいいでしょう。伝道する喜びがここにあります。苦しいところを通っておられる方は、主の前に出て祈られたらよいですし、共に祈ってほしいということであれば、私は共に祈ります。愉しいときを過ごしておられる方は、喜びの源である主を賛美したらいいです。「わたしの杯はあふれている」のですから。

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   説教「聖霊の油そそぎ」詩篇23篇講解説教⑩ 
     2023年8月20日 黒澤俊人勧士
聖書箇所  「頭に香油を注いでくださいます。」詩篇23篇5節b

 前回、良い羊飼いは、自分の羊たちを高地の整えられた放牧地、敵をよそに食卓を整えるようにして、導かれます。そこには泉があり、きれいな水が流れ出しています。木の葉は新鮮で柔らかく、羊たちは羊飼いとの密接な関係にはいります、と語りました。
しかし、羊たちは思いがけないことに出くわします。夏はまた虫の季節、羊たちにとっても虫に悩まされる季節です。ハエ、アブ、カなどの昆虫は、温かい季節になると大量に発生する。羊だけではない。馬、牛も昆虫に刺されて家畜は悩む。
羊の場合、わずか数ミリの”鼻バエ”と呼ばれるハエが群れを成して、羊の鼻のまわりをぶんぶん飛び回り、卵を羊の鼻の湿った粘膜質の部分に産み付ける。二、三日すると卵は孵化し、小さなうじ虫になります。”鼻バエ”のうじ虫は鼻腔を通り羊の頭の中に入り込むと、羊はひどい炎症と痛みを引き起こします。羊はこのいらだたしい苦痛からのがれようとして、土に頭をこすりつけたり、樹木や岩に頭を打ちつけたりして、いらだたしさと苦痛から逃れようとしますがいっこうに解決しない。眼球にうじ虫が回ると失明する羊もでる。中には逆上して自ら死を招くこともあります。”鼻バエ”がもたらす苦痛を察知して、羊たちは”鼻バエ”の飛び回る音が聞こえると木陰に逃げたり、走り回ったり、頭を激しく振ったりし始め、”鼻バエ”の恐怖に怯えて、狂気的な行動を取る。その結果は羊の群れに破壊的な影響がもたらされる。健康がそこなわれ、目方が減り、狂気の行動は怪我のもとに留まらず、”鼻バエ”に悩まされる羊たちは、草場で草を食むゆとりはもはやない。夜、安らかに眠ることもできない。
 しかし、良い羊飼いは、”鼻バエ”の機先を制し、”鼻バエ”のリスク回避を実施します。羊の群れに常にきびしい目を持って見張っている良い羊飼いは、”鼻バエ”が初めて現れるとすぐに、羊の頭に塗布する特効薬を使用します。ある牧羊家は、亜麻仁油と硫黄とタールで自家製した薬を羊たちの頭と鼻に塗ります。頭と鼻にその特効薬を塗られた羊には、”鼻バエ”はたかることはありません。薬が塗られ、”鼻バエ”が近寄らないことが分かると、羊たちは狂気の行動を取ることはなくなります。逆上することもありません。”鼻バエ”のぶんぶんと鳴る羽音に、苛立ちや不安を表すこともなくなり、羊たちはうって変わって、静かに草を食べ、安らかに満足して横になるのです。
 由緒あるレストランで開催される祝宴会に、一匹のハエがぶんぶん飛び回り、なんと主賓席の料理にとまるとすれば、その祝宴は台無しになってしまうのと同様に、私たちの人生にも、小さい、些細なことで幸いな道程が乱されることがあります。また、私たちキリスト者が高い霊的経験を味わう油の中に一匹のハエが入り込むこともあります。一匹のハエが、私たちの安息を壊し、ささいなハエなのに、私たちは逆上しそうになりさえする。小さな心の混乱ではあるものの、それが繰り返されると重大問題になり、私たちを痛めつける。
 良い羊飼いが羊の頭に丁寧に薬を塗ると羊たちは安寧を取り戻します。良い羊飼いが薬を塗る時に、塗られるのを嫌がる羊も居るし、おとなしくして、塗られるのを喜ぶ羊もいる。

 良い羊飼いは、自分の羊が塗られるのを嫌おうが好もうが、一匹丹念に膏薬を塗っていくように、聖霊は私たち一人びとりに個人的に、しかも並走するかのように働かれる。私たちキリスト者を十羽ひとからげひとからげにして、働かれるのではない。譬えていえば、パラリンピックのマラソンランナーに健常者のベテランランナーが並走するようなものです。
 羊たちは、頭と鼻に塗られた特効薬の効果は永続するものではありません。日が経つにつれて効果は減退するのです。一回塗ればいいというものではない。従って特効薬は繰り返して塗られる必要があります。私たちの霊的な生涯、信仰生活もまた同様に、聖霊の油注ぎは定期的になされる必要があります。

 聖霊という賜物よりも、この世を生きる力、知恵などお一人びとりにとって具体的な賜物が欲しいと考えておられるならば、お考えを改めていただきたい。ルカによる福音書には、私たちキリスト者が父なる神に求めるのは聖霊であり、それはまた父なる神が望んでおられることだと告げています。
「あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父は、ご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」ルカ11章13節

 聖霊の油と言えば、この者が学生の頃、祈祷会にて故車田秋次師(日本ホーリネス教団創設者1949年創設)が、十人の乙女のたとえ話をマタイによる福音書25章から奨励なされたことを思い出します。「そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。夜中に、『さあ、花婿で、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足るだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう。彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そとて戸がしめられた。そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。だから、目を覚ましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。」
とゆっくりと、かつしみじみと朗読され、朗読された後、長々と話しをするのではなく、ただ一言、『この油とは聖霊のことです。』と言われ、奨励を終えられました。
 先ほどは、この世を生きる力、知恵よりもと申し上げました。求めればそれらを賜ることもあるでしょう。しかし、それらはこの世限りの恵みであって、この世が終わる際までの恵みです。しかし、御霊は、罪と死の法則から私たちを解放し永遠の命へと導きます。
「こういうわけで、今やキリストイエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。それは肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。肉に従うものは肉に属することを考えますが、御霊に従うものは御霊に属することを考えます。肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。」ローマ人への手紙8章1〜6節
 いのちと平安、わかりやすく言えば天国に至る者は、この世を通過して行く時に御霊の香り、すなわち高貴な人格的特性を放つはずです。聖霊の賜物をいただかない限りは、その香りを放つことはできません。御霊と共にいる私たちは、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の御霊の実を結んでいるはずです。御霊から離れていると、人は、キリスト者といえども、不満、苛立ち、短期などにさいなまれます。もしそのような中にいるならば、こう祈ったらいいです。「主よ、今、私はこのように心が乱され、問題があります。この問題を私は解決することができません。どうかあなたの御霊の油を私に塗ってください。私の意識していること、意識していないこと、その両方で、私をあなたの求められるように行動することができますように。」
このように、主を前にして心を込めて祈り求めれば、すぐに主は御霊を私たちに送り、私たちの願いを叶えてくださいます。
 羊たちが夏に悩まされるのは”鼻バエ”の他に「かいせん」がある。「かいせん」は顕微鏡でやっと見ることができる微小な寄生虫による感染症です。羊は仲間同士の確認するためにか、人間が互いに挨拶を交わすように、互いに優しく、頭と頭をこすり合わすことを好みます。「かいせん」に冒された羊が一頭でもいるとすぐに「かいせん」は増え広がります。
 旧約聖書には、生け贄の子羊は、傷のないものと定められています。単に外傷の無い羊ということもありますが、「かいせん」に冒されていない羊という質的欠陥のないものということです。アダム、エバの息子たち、アベルの献げものは質、量共に神のよしとされた羊であり、カインの献げものは質あるいは量に神のよしとしない傷があったので神に受け入れられなかったと考えられます。
 「かいせん」の伝染病のように、私たちクリスチャンの生活において、世の汚れ、罪の汚れにより、私たちの霊、肉に影響を与えるのは心を通してです。
 人工発信受信機器の発明、伝達技術の進歩により今日、私たちの心には何と多くのかつリアルな情報、思想がもたらされることかと驚かされます。問題は、その内容と発信者の質です。以前からそうであるが、マスメディアは、キリストに似合わない性格の持ち主である方々によって経営され配信されていることが多い。彼らは、しばしば反キリスト的でもあります。そのような情報に私たちキリスト者がさらされると、それに汚染されないで出てくることはかなり難しいことです。そのような反キリスト的な放送・報道は、暴力、憎悪、偏見、貪欲をかき立て、皮肉的な行動へ心が傾き、高貴なもの、上品なもの純真なもの、美しいものを軽蔑をしています。毎日、二十四時間放送され、私たちは反キリスト情報に無感覚にさえなっています。聖書はこのマスメディアのいやらしい放送に対して全く正反対のことを教えています。
「最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。」ピリピ4章8節
これら善良なものは、父なる神の祝福から出てきます。すべてを託された主イエスキリストに学び、御霊と共に実践していく以外に身につきません。
 
 御霊は、日本語の聖書では「助け主」口語訳、新改訳2017 あるいは「弁護者」共同訳 と訳されていますが、困った時の助っ人ではありません。原語ギリシャ語では、バラクレートス、『そばに呼ぶ者』の意味であり、英語ではsastainer 維持管理者と訳している聖書もあります。私たちの信仰の歩みのみならず日常生活他全般にわたり、私たちを継続して支え、導かれるお方です。
 しかも、聖霊様は二十四時間働かれます。良い羊飼いが四六時中羊たちの世話をするように、御霊は昼夜を問わず働かれます。
 夏はまた、羊にとって恋の季節。雌をめぐる雄同士が雌をめぐり戦う時です。良い羊飼いは、雄羊の頭にグリース、潤滑油を塗る。すると頭と頭をぶつけ合う雄羊は、グリースが互いにそらせ、力が相手に思ったように伝わらない。相対する羊は、何か馬鹿げたことをしているようで、争いを止めます。
 教会の中でも争いや戦いを治めるのは、聖霊というグリースを双方の魂に、主イエス様によって塗っていただくしか解決の方法はないのです。
 聖霊の油そそぎは、私たちキリスト者に、あらゆる場合に、有効かつ必須の神の祝福をもたらします。晴れの日も雨の日も、健康な人も病人も、富める時も貧しい時も、苦しい時代も楽しい時代も、成功者も失敗者も、御霊が働くならばあらゆる場面で神の祝福をもたらしてくださるのです。『聖霊に導かれ、聖霊と共に生きる』、今年度、教団の標語ですが、この別府キリスト教会も聖霊の油そそぎを受けたいものです。「頭に香油を注いでくださいます」とダビデは感謝を持って、主なる神を賛美しています。私たちも、『主イエス様は、私たちに聖霊の油そそぎをしてくださいます』と感謝して賛美しようではありませんか。

 説教「食卓を整える主」 詩篇23篇講解説教⑨
  2023年8月6日 黒澤俊人勧士

聖書箇所  「私の敵をよそに あなたは私の前に食卓を整え」詩篇23篇5節a

 今日の御言葉、「私の敵をよそに あなたは私の前に食卓を整え」と賛美したときに、ダビデは、良い羊飼いが夏の盛りには羊たちを高地に導く、その高地こそが最高の食卓であることを念頭に置いていたに違いありません。
述べられている食卓とは、単にテーブルだけではありません。料理もまた用意される。そのテーブルセッティングは正に王の食卓であり、供される料理と調度は、最上のものではないかと思われます。更に主は、終わりの日には、天使たちに命じて、その食卓を整え、古の預言者や現今の説教者、奉仕者たちに霊と肉の料理を提供させて、主ご自身はゲストオブオーナーとして、用意なされた食卓、提供される料理を用いて、ご自身と教会の婚姻祝宴を大大的に開催なさる。

今日は、『食卓を整える主』と題し、話しをさせていただき、今もまたこれからも、私たちに必要な食卓をいつも整え、私たちが天に凱旋するときには、主イエス様は、聖書によると「小羊の婚宴」黙示録19章9節 と呼ばれる婚宴を開催なさる。婚宴ですから主催者はあらかじめ周到な準備をします。
 前回は、良い羊飼いはわたしを聖霊という杖と鞭をもって、外敵から守り、導き、正すと語りました。良い羊飼いは、私たち羊を夏の盛りに高地に導くのですと語りました。

羊の牧場がある高地をスペイン語では、メサスといいそれはまた食卓という意味です。アフリカの言語、スワヒリ語でも、食卓を表す言葉はメスという言葉です。羊飼いは、自分の羊たちを夏の盛り、暑い時期に高地の涼しい所に導き、そこは羊たちにとって新鮮な草場であり、食卓なのです。特別に可愛がっている羊だけを食卓につかせるのではない。自分の羊たち、群れ全体を連れていきます。

「敵をよそに」とあります。口語訳では「敵の前で」、共同訳では「苦しめる者の前で」
敵とは誰か。ダビデは羊飼いとして、羊の敵がいることを熟知していました。
ある牧羊家は、この方はアメリカの西部地方で牧羊を営み、成功した方ですが、高地で羊たちを飼うリスクは二つあると言っています。
 一つは、毒草です。アメリカ西部の場合は、白百合が羊にとっては毒草なのだそうです。その葉を羊たちが食べれば数分後には体がこわばり、まもなく死に至る。特に生後間もない子羊は、白百合の葉をかじっただけですぐに、白百合の毒が体中にめぐり、死ぬのだそうです。白百合は、群生することはありません。ところどころに咲く。羊たちの方では、高地に生える草場に導かれれば、みなおいしい草ばかりと思うのか、毒草かどうかなどと考えることなどしないでひたすら草を食む。
 良い羊飼いは、当然のことながら高地の状態を事前に調査する。羊たちを高地に導く前に、夏になる前に実地調査、現地調査に自ら出向き、羊たちの草場、水場、寝る場所をつぶさに調べます。もし毒草が生えているならば根こそぎ刈り取ります。春に抜き取ったとしても、その後毒草が生えるかもしれないと良い羊飼いは思慮し、夏、羊たちを導く先頭に立ち、草場に鋭い目線を投げて、白百合などの毒草があるかないか確認します。あれば、すぐに抜き取り羊たちが食べないように処分します。
 キリスト者の生活の中に、サタンは毒草を植える。主イエス様は、私たちが行くべき道とその傍らに植えられた毒草は、すべて抜き取られます。しかし、道から離れた場所にはところどころに毒草は生えたままになっています。良い羊飼いなる主イエス様から離れた場所に行く羊は、毒草を食べる確率が高くなります。ペテロも、主が渡される夜、一女性から「この人は、イエスと一緒にいた」と言われて、ペテロは、主を否む毒草を食べてしまいました。この時も主イエス様は、ペテロに警告して、「サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。」ルカ22章31節 と言われました。主の愛は、裏切られても、しぼむことはなありません。主の愛は、不変の愛です。主ご自身が目をかけておられたシモンペテロ。そのペテロが、”イエスなんて知らない、神に誓って知らない”と言うのを聞いた主イエス様。しかし、主は、主を裏切ったという絶望感に陥っているペテロの信仰がなくならないように祈られました。毒草の毒がなくなるには、癒し主なる主に取り扱われる以外に方策はないのです。
 私たちも、ペテロのように主イエス様を裏切るようなことはないかもしれませんが、一歩教会を出たら、この世的な考えを優先させて聖書の教えを第一としない方々がいいやしないか。何を隠そう、この者も救われて間もなく、あの救いの体験の興奮が冷めると、学校であるいは職場で、私はクリスチャンですと言うのが恥ずかしく言えなかった。「すべての造られものに福音を伝えよ」マルコ16章15節 は勿論できない。「主の証し人たるべし」使徒の働き1章8節 もできない。そのような者でした。しかし、そのような私のために教会の誰かが祈って下さったので、「世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。」ヨハネの手紙Ⅰ2章17節 の御言葉を信じ、いつまでも変わらない主イエス様の忍耐極まる愛にすべてをかけようという勇気が湧いてきました。

 ひたつ目のリスクは、肉食動物です。
狼やコヨーテ、熊などの獰猛な肉食動物は、木陰、茂みから、常に風下に位置し羊の群れの動向を見て、群れから離れている羊を狙う。羊飼いが近くにいないとわかれば、群れに襲いかかり、慌てて逃げ出した一、二頭の羊が餌食となります。良い羊飼いは、肉食動物が潜んでいないか徹底的に調べ、足跡などその痕跡があれば、ワナを仕掛けたり、狩をしてそのリスクを除いておきます。
 アメリカ西部ではクーガーと呼ばれる大型の山猫が羊たちの敵です。体長は1~2m 体重も60~100kg。夜行性で昼間は森陰や岩場から羊たちの行動を伺い、夜牧舎に侵入する。羊飼いはクーガーが畜舎に侵入したと察知するとすぐにライフルを取り、クーガーを射殺するため急行します。がしかし、クーガーの方では、人間の臭い、ライフルの火薬の匂いを察知するとすぐに逃げ去る。牧羊家の多くが、クーガーの被害に遭うものの、実際にクーガーの姿を見た方はごく僅かだそうです。

クーガーは、ライオンのように吠えたけることはせず、忍び足で畜舎に近づき、できる限り静かに侵入する。羊の群れに恐ろしい破壊をもたらす。即座に雌羊が噛み裂かれ、内蔵が食べられて、血が流れる。ひどく爪で引き裂かれ、羊毛がはぎとられた羊たちもいます。クーガーの腹が満たされ、残虐さが果たされると、猫がネズミをもて遊ぶように巨大な猫であるクーガーは、羊たちを追いかけ回したり、爪をたててなぜ回したりする。羊たちは恐怖のあまり、”メェ”と鳴くことすらなく、怯えるばかり。
 新約聖書では、「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吠えたける獅子のように、食い尽くすそうと探し回っています。」Iペテロ5章8節 と記されています。
 悪魔、サタンの存在すら懐疑的に考える方々は、悪魔、サタンの思う壺です。クーガーが羊飼いたちには姿を見せないように、悪魔、サタンは私たちクリスチャンにその姿を見せない。隠れて、暗闇を利用して、神に抗い、悪事を企み、誘惑して悪事に誘う。かと思えば、「光の天使に変装して」白昼堂々と現れることもある。IIコリント11章14節
とにかく悪賢い。私たち羊は、とうてい太刀打ちできない。羊がクーガーから守られるのはひとえに良い羊飼いの不断の保護によります。それと同じく、私たちが悪魔から、サタンから守られるのは主イエス様の保護による以外にはないのです。場合によっては、主イエス様は、私たち教会が悪魔と戦うことをお命じになることがあるかもしれません。その場合でも御言葉の剣を持って戦うのでなければ、必ず負けます。サタンと戦う戦士が、返り血を浴びないよう、神の武具たる保護具、腰には真理のベルト、胸には正義の胸当て、平和の福音靴を履き、信仰の盾を取り、頭は救いの兜、それらの完全武装の上に祈りの孟訓練がなされた戦士でさえ、サタンとは五分五分の勝負が可能だと心得ておく必要があるでしょう。

「私の敵をよそに」とあります。新改訳聖書では、語り手が神の場合はひらがなで「わたし」と記し、語り手が人間の場合には漢字で「私」と表しています。詩篇23篇5節の私は、漢字で記されていますから、私は、ダビデのことです。ダビデの敵とは誰かは具体的には誰かを特定するのは、ここでは控えることにし、私たち教会の敵とは誰かをはっきりさせておきたい。エペソ人への手紙6章12節には「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。」とあり一言で言うと悪魔と悪霊が私たちの敵です。私たちひとりびとりは悪魔ではない。がしかし、私たちにも悪霊が働くならば、私たち自身が教会の敵になりうることに留意したいものです。
 強調したいのは、私たちの敵よりも「私の敵をよそに」口語訳聖書では「わたしの敵の前で」、共同訳聖書では「私を苦しめる者の前で」、英語訳AMPでは「in the presence of my enemies」
あなたは、即ち主なる神は、敵を除外して、敵前で、苦しめる者の眼前で、食卓を整えてくださるということです。

 毒草除去、獰猛な肉食動物対策のほかに、良い羊飼いには高地でなすべき仕事がもうひとつあります。羊たちが飲む水場の整備の仕事です。木の葉や枝、土石、など秋から冬にかけて水源にたまったゴミをかきだし清掃をします。水源の土手を修復もします。堆積したゴミで泉が留まっているのを復旧する仕事もあります。欠かすことのできない大切な仕事です。
私たちキリスト者が生活をしていく中で、私たちの主イエス様は、良い羊飼いとして、ご自身が私たちより先にすでに人間としての生活をなされ、私たちが出会う試練・苦しみをご体験なされました。主は、地上の人間の生活の中に、入ってこられ辛酸も喜びも充分にかつ完全にご体験なされたのです。ですから、主は私たちの苦難を知りぬいておられます。人間の悩みをよく知っておられます。主は、ご自身を人間と全く同じ試練をすべて受けられたのです。ヘブル4章15節 ですから、主は私たちの思いや理解を超えて、私たちのために配慮し、同情してくださる。そして、良い羊飼いが高地の整備をするように、主は、私たちの生活を整えてくださる。主のうちに憩う姿勢、主の配慮への信頼が育まれると、私たちは主のご臨在に目が開かれ、私たちは主の御許に憩い、私たちの生活は静かな落ち着いたものとなります。高地に導かれた羊たちのようになります。高地の体験を私たちが可能になるのは、高地には私たちよりも先に主が来られて、私たちのためにも食卓をご用意なされておられる、いなもうすで整えられているキリストの配慮とご支配があるからなのです。

世間でよく言われることの一つに”人生、山あり、谷あり”ということがあります。私たちキリスト者も同様に、山あり、谷ありです。クリスチャンになれば、自動的に人生は輝かしいものになると思っている人がいらっしゃるが、そのようなことはあまりない。いや、ほとんどない。私たちの良い羊飼いが先だって、私たち羊を夏の高地に導くときに、安全を確保し、羊たちの幸いのためにあらゆる備えをしたからといって、それは、そこに羊たちが行ったときに、何の問題もないというわけではありません。肉食動物はなお羊たちを襲うことができるし、毒草は芽生えてくる。嵐や疾風の天候もあるし、その他のリスクが高地にはあります。そのようなリスクがある中で、キリストは私たちのために配慮し、ご心配なさり、私たちが悲しむ時にも、格別の喜びを与えると保証なさるお方なのです。私たち、キリストのものとされた者たちのために、キリストがどれほど大きな犠牲を支払われたか、私たちはほんの一部しか知らないのです。
良い羊飼いは、高地を羊に先立って、検分し夏の高地を整える時に孤独であり、また自己犠牲そのものです。良い羊飼いの後についていく羊たちは、その孤独と犠牲を見ることはありません。主は、十字架におかかりになる直前に、ひとりゲッセマネで祈られました。弟子たちは皆、眠りこけて共に祈ることはなかった。ピラトの官邸で裁判を受けられた際も、誰一人弁護する者はいませんでした。孤独な苦闘は、個人的な貧しさを伴いかつ必ず犠牲を伴う。主は、人知れず絶望的孤独と心の貧しさを味わい、そして命をも犠牲にされた。それはすべて私たち、主に従う者たちが高地の食卓に与るためです。
 夏の盛りに高地に導かれる羊は幸いです。私たちにとっても、夏の盛りは霊的な高地に導かれる時でもあります。教団が主催する夏季聖会はもう終わりましたが、記録ソフトを見ることができます。九州教区の聖会は9月17〜18日に対面集会が予定され、リモート配信ユーチューブで視聴可能です。主イエス様のねんごろな支配の中に、この夏、入れていただきましょう。そこは、毒草と悪魔のリスクがあるところかもしれませんが、高地であることは確かです。
ダビデが「わたしの敵が、わたしを苦しめる者をよそに」と賛美したように、私たち、キリスト者も、「私たちの敵であるサタンから、主よ、あなたは私たちを防いでくださる」と確信し、敵の前にして、ダビデが、「主よ、あなたは食卓を整える」と感謝したように、私たちも「主よ、あなたは、私の魂に必須の賜物を用意して下さる」と感謝しょうではありませんか。ある方々には聖霊の賜物、ある方々には御言葉の賜物。魂のあるいはお体の癒しの賜物など、主の身元に憩い、神の賜物に浸りましょう。
 ダビデは、若い頃、父エッサイから託された羊の群れを夏の盛りに高地に導き、羊たちが高地の草場で静かに、皆仲良く、新鮮な草を食むのを見て、喜んだことでしょう。羊の群れを高地に導いていく苦労が報われた思いであったに違いありません。
 主イエス様も、羊たる私たちが、高地、即ち聖霊の導きと保護の中で、キリストの教会という群れが仲良く、御言葉を食む光景を見守るのをお喜びなさる。聖霊に導かれ、御言葉を食む者は清い思考、高貴な生活、高尚な生涯に入れられます。キリストの愛は、私たちを高地に導くために、ゴルゴダの丘で命さえ惜しまず最大の犠牲を支払ってくださいました。最良の食卓を今も用意しておられます。私たちがこの世の世俗的な価値観とは、全く異なる生き方をするのを喜ばれます。私たちが主イエス様の臨在、つまりいつも主の前にいることの意識を持ち、主が親しく私たちと共にいてくださることを喜ぶ、その時に私たちはきよい、静かな、満ち足りた時空に入るのです。
 この時空を生きる事は豊かに生きることであり、
この時空に歩むのが、静かな確信を持って歩むことです。
この時空で食べることは、良いもので満たされることです。
この時空を見いだすことは、私の牧者の愛、私への愛の幾分かを知り得たことなのです。


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「慰めと励ましの杖」詩篇23篇講解説教⑧
  2023年7月16日 黒澤俊人勧士

聖書箇所  「あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです。」詩篇23篇4節b

 先ほど、詩篇23篇を朗読していただきました。今日は、4節の後半「あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです。」の御言葉から説教させていただきます。「あなたの」とある「あなた」は主なる神のことであり、「私」はダビデのことです。この御言葉を読む現代の私たちにとっては、「あなた」は主イエス・キリスト様であり、「私」は私たち、おひとりびとりです。この詩篇23篇では、神と人との関係を、羊飼いと羊の関係になぞらえています。新約聖書的な理解では、良い羊飼いである主イエスキリストと、私たち教会に連なる者は皆、その羊たちです。
 前回、死の谷を通過する羊は、良い羊飼いである主イエス様が共にいてくださり、私たちは、暗い谷間のようなところをも通過していきます、とお話ししました。
 今日は、主イエス様は、どのようにして共にいてくださるのか、どのようにして私たちを導いてくださるのかをお話しし、共に主なる神、イエスキリスト様を礼拝したいと思います。
一言で言うと、杖一つで、狼などの外敵を撃ち、鞭一つで害虫を追い払い、鞭と杖で離れようとする羊を留め救い上げるのです。

 ミデアンの地で羊飼いになったモーセを、神が召したとき、エジプトからイスラエルの民を召し出す力と権威を証しする物として杖を授けられました。正確に言うと、羊飼いとして持っていた杖を、神はご自身の権威と力を象徴するものに変えてくださいました。出エジプト記4章2〜5節
 モーセは、40歳の時、エジプトから逃げて、羊飼いの仕事に付き、姑エテロの羊を飼います。聖書にはモーセが一人前の羊飼いになる過程は記されていませんが、群れを任せられるようになるまで、何年もかかったに違いありません。杖を作り、投げる訓練もしたことでしょう。一人前の羊飼いとなって、モーセは姑エテロからその群れを養うことを任されました。エテロから、エテロの杖を譲り受けたのかもしれません。
この詩篇23編の作者ダビデもまさに少年の頃から杖と鞭を投げる投擲訓練を自主的にしていたに違いありません。父エッサイは、末子ダビデが羊飼いとして身に付けるべき鞭と杖の扱いを学び、その実地訓練を終えたのを見て、自分の羊の群れをダビデに委ねたことでしょう。ダビデにとっても鞭と杖の学びと訓練を終えて、鞭と杖が励ましであり慰めであることを実体験により習得したことでしょう。
 令和五年の今、私たちが生きているこの日本には数多くの、混乱した声、異様と思われる騒がしい思想、新しいが永続はしない哲学がマスコミを通して喧伝されています。その中にあって、神から授けられる鞭と杖は、私たちにとって励ましであり慰めです。この鞭と杖が、現代日本の混沌の中でも、私たちクリスチャンを混乱から招かれる唯一無二のものです。ある牧羊家の方によると、羊を飼う際に、杖が最も意義を発揮する場合が三つあるそうです。

 第一は、狼などの外敵から守る場合に杖が用いられます。
昔の羊飼いは、羊の群れを移動させていくときに必ず鞭と杖を携行していました。現代の牧羊家もライフル銃他、最小限の持ち物しか携行しないそうです。
見習羊飼い、すなわち牧童と呼ばれる少年のような若者たちは、父親の羊の群れの世話をするようになった時から、自分の選んだ力量に合った棍棒を持つことを誇りとします。牧童は、森に入って行き、若木を選び根元から掘り起こす。その陽根を十分な注意と忍耐と思って切り分け、削る。掘り出した陽根は牧童の体にぴったりと合うこん棒に削り出します。出来上がると、牧童はそのこん棒で毎日何時間もかけて投擲訓練をします。数メートル先の的を狙って、その速さと正確さを磨くのです。牧童はこん棒を操る方法を覚えたときに初めてこん棒は、牧童自身と羊とを共に守るための武器つまり杖になります。杖は守るための武器になるだけではなく、強情な羊が道を外して外に出て行くようとする羊たちを戒め、正しい道へ導く器具でもあります。現代でもこん棒は、ロッドlodといいは、英語ではカウボーイが手にする拳銃を意味する言葉です。
羊飼いが常に、鞭と杖を携行しているのは、第一義的には、狼、山猫などの外敵から羊を守るためです。良い羊飼いは、狼や山猫が一匹の羊に接近するのを見たら、すぐに手にある杖を外敵に向かい投げつける。外敵は、杖の威力にたじろぎ退散し、外敵の標的になった羊は羊飼いの近くに逃れます。
 私たちの主イエス様は、宣教の始めに、聖霊により荒野に導かれ、ヘビであるサタンと対決されたとき、神の御言葉によりサタンを退けられました。神の権威でもなく、神の力でもない、神のお言葉によりサタンと対決し、勝利されました。神の御言葉は、今も私たちがサタンの攻撃や悪霊との戦いに立ち向かうために有効な強い杖です。また私たちが困難や苦境という悪路を行くときに、御言葉は携行すべき杖です。
今の世の中において、社会秩序を乱すが如き複雑な状況の中で、信仰生活ばかりか社会活動を守っていくのに、聖書の代わりになり得るものはありません。私たちはかつてないほどに込み入った難しい環境の中に生きています。キリストがよしとするすべてのことに抗うような行動規範を持っている人々の世界に、私たちは属しています。そのようなキリストに抗う人々と共に生きるならば、私たちは常にそれらの人たちから様々な方法で、誘惑にさらされています。ある人々は非常に巧妙で卒がないかつ知的ではあるけれども悪の誘惑にさらされています。またある人はむき出しの乱暴な毒舌によって私たち神の子達への攻撃をしてきます。どのような状況の中であっても神の言葉により頼むなら、どんな困難にあっても、それらの誘惑から逃れることができ、問題から解決することができます。
 新約聖書では、「御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい」エペソ6章17節とあり、神のすべての武具の中で唯一攻撃的な武具として、御言葉は剣であると言っています。
祈る時に、御言葉によって祈ると、その祈りには力があります。なぜなら御言葉には力があるからです。

 第二に、羊が野薔薇やイバラの藪に入り込んで、身動きが取れなくてなることがしばしばあり、その際に羊飼いは杖を使って助けだします。イバラをかき分け、羊が脱出できるスペースを作るのです。また羊が自分勝手な方向に迷い出て行ったり、毒草に近づいたり、様々な危険に近づくと羊飼いは、容赦なく、杖、鞭を使い強情な羊を仲間のもとに戻らせます。
また羊飼いは羊の健康状態を調べたり、その数を数えるために杖を用います。羊は毛が長いために病気や傷や欠陥を探しだすのは容易なことではありません。羊飼いは熟練した審査員のように自分の杖を取り、羊の毛を分けて、肌の状態、羊毛の清潔度、身体の状況を判定します。羊の毛が羊の体を覆っているために、羊毛をかき分けて羊の身体の状態を診断します。長い毛のゆえに、その判定は、誤まることはしません。良い羊飼いは自分の羊たち、群れの全部を一匹づつ自分の羊を手元に呼び寄せ、杖を使って羊毛をかき分け、杖を体に直接付けて、羊たちを丹念に調べます。詩篇139篇の御言葉を思います。「主よ あなたは私を探り 知っておられます。あなたは 私の座るのも立つのも知っておられ 遠くから私の思いを読み取られます。あなたは私が歩くのも伏すのも見守り 私の道のすべてを知り抜いておられます。」1〜3節
「神よ 私を探り 私の心を知ってください。私を調べ 私の思い煩いを知ってください。私のうちに 傷のついた道があるかないかを見て 私をとこしえの道に導いてください。」23〜24節
 新約聖書では、さらにこう言っています。
「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣より鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。」ヘブル4章12節
 羊はがんこな動物なために、急斜面に生えている草を食べようとして、愚かにもその急斜面を降りていくことがある。そこですべって海に落ちた羊が幾度となく見られます。羊飼いの杖だけがその羊を水から引き上げることが可能なのです。またいばらの茂みに入り込んでどうにも身動きができなくなることもよく起こります。いばらの先にある草がほしくて、迂回すればいいものを愚かしくもいばらの茂みを突っ切ろうとする。羊の毛がいばらにからみどんなの引いても外すことができない。羊飼いが杖を使うことによってのみもつれから脱出することができるのです。
 私たちの場合も同じようなものではないでしょうか。私たち自身の混乱や悩みの多くは、自分で作り出したことがなんと多いことでしょう。頑固、わがまま、自己主張によって、私たちは自分で解きほごすことのできない状況の中に自らを押し込んでいることがしばしばあります。そのとき、私たちの良い羊飼いである主イエス様は、優しさと同情と配慮をもって私たちのところに来られます。主は近づいて来られ、その霊、御霊によってやさしく持ち上げて、私たちを難曲やジレンマから助け出してくださいます。主は私たちをどれほど耐え忍んでおられることか。何という主の忍耐力でしょうか。聖霊という杖は、私たちを慰め、励ましてくださることでしょうか。私たち信仰者にとっては、なんという平安がもたらされることか、また厳しい中にあっても安息ともなります。

 第三に、羊を引き寄せて親しい関係に入れる場合に羊飼いは杖を用います。羊飼いは生まれたばかりの小羊を母羊のところに連れて行くときに、素手で小羊を抱いて持っていくことはしません。必ず杖を使います。雌羊は自分が産んだ小羊でも、人間の手の匂いが付いたならば、拒否してしまうからです。また羊飼いは、自分の羊たちの健康状態を調べるため、羊たちを捉える際に杖を使って引き寄せます。また羊飼いが羊を可愛がる場合や導いていく場合にも、杖を介して行います。良い羊飼いは、羊を叩くことはしません。むしろ杖の先端部に布を巻きつけ、羊が杖の硬い部分で傷つくことがないよう配慮します。杖を羊の身体に触れて可愛がりまた導いていきます。

 キリスト者の生活はただある教理にあるいは教えに同意を示したり、ある事実を信じたりするだけのものではありません。聖書への信頼はすべてなくてならないものですが、同時に、主イエス様が触れて下さるという感覚、御霊が私の魂に望んでくださる意識、その経験と知識とが現実のものとなるということもあります。真の神の子には、親密な素晴らしい慰め主がすぐそばにいてくださることを意識するという経験があります。これは、想像ではなく、純粋かつ誠実な日常生活の現実です。私たちの教団では、旗印として、新生、聖化、神癒、再臨という、いわゆる四重の福音を掲げています。その内の二番目の福音である聖化の恵みのことです。
 私たちクリスチャンにとって、聖霊なる神と神の言葉は、鞭であり杖です。鞭、杖に伴う力、的確な導き、私たちを信服させる神の権威は、私たちに励ましと慰めをもたらします。
朝起きてすぐに、聖書を読み、神のお言葉を黙想すると、神は私の心に落書きを与えるようにして、お語りになることがあります。
齢七十三、次第に衰えていく我が身に、神は鞭をもって我が存在を糺しかつ鍛えます。神の子たるクリスチャンにとって、御言葉が受肉する、神がひとりびとりの霊と心と身体に染み入る体験は、避けるべきではありません。いな、関節と骨髄を切り通す御言葉体験は、神の祝福であり、クリスチャンの幸いのために、神が配慮された神の最善です。

 羊毛は、旧約聖書によると、自我の生活、自由意志、自己主張を意味します。羊飼いが羊毛をかき分け、羊の健康状態を探るように、主イエス様は、御言葉、聖霊によってご自身の羊たるクリスチャンを取り扱われます。
 日々のごくささやかな事においても、主イエス様の霊、御霊が導いてくださることを知るならば、その日々は穏やかで、静かな休息の日々となることでしよう。主はあらゆる決定すべきことに当たり、全幅の信頼を寄せるにたるお方であり、クリスチャンにとって素晴らしい慰めがあります。ダビデはその人生の節目、節目で何度も主なる神の導き、助け、忠告を求めた人物でした。そして神はその都度、的確な答えをくだされました。
 問題に直面したとき、こう祈ってはいかがでしょうか。「あなたは私と共におられます。あなたはこの問題をすべてご存じです。今この時点で、どのように進めていけば良いのか、どうかお教えください。」そう祈るならば、主は必ずその祈りに応えてくださり、最良の方策が示されることでしょう。
 私たちが失敗に終わるのは、まさにそのように祈らず、己が良しとする判断に従った時です。いつの間にか、わけのわからない状況に陥るのもまたしかりです。しかしそのような失敗、落ち込んだ状況の中でも、恵み深い聖霊は、ちょうど良い羊飼いが、己の愚かさゆえに落ち込んだ羊を救い出すように、私たちを救い出すために来てくださいます。
 ダビデが「あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです。」と主を賛美したように、私たちも「主は私たちに、聖霊というむちと杖をくださり、日々の慰めと励ましをくださいます」と確信して進んでいこうではありませんか。
 主イエス様は、私たちのために聖霊をくださり、私たちを外敵から守り、私たちを矯正し、きよめます。この聖霊なる神を求めていこうではありませんか。


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 説教「死の谷を通過する羊」詩篇23篇講解説教⑦
​  2023年7月2日 黒澤俊人勧士


聖書箇所 たとえ 死の陰の谷を歩むとしても、私はわざわいを恐れません。
     あなたが ともにおられますから。 詩篇23篇4節a

 聖書の舞台となったイスラエル、パレスチナ地方は、冬は暖かく雨が多い地域です。夏は暑く日照が続く地域です。夏の暑さから羊たちを守るため、羊飼いは山の頂き近くの高地に羊たちを導きます。低地に留めておくならば、羊たちは暑さと日照りで弱ってしまいます。高地に登っていく最良の道は、谷を通っていく道であることを羊飼いは知っていました。ダビデもまた、谷を通って行く道が、高地に行く着くためには最良の道であり、かつリスクも高い道であることも知っていました。またダビデは、神は良い羊飼い、人は羊のような存在であることも自覚していました。羊たる自分が、良い羊飼いたる神により、導かれているから、暗い谷を行くときも災いを恐れませんと言いきれたのです。ダビデはさらに、暗い谷という以上の「死の陰の谷」と記し、死を恐れない信仰に立った人物でした。
死の谷だから、当然暗い谷です。死を忌み嫌うのは、古今東西人類に共通の思いです。陰ですから、暗い部分であり、明るい所ではない。
「たとい、死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません」
というこの聖句は、死のにおいがする暗い谷を通っている人々への慰めのために用いられます。この場合でも、神の子たるクリスチャンにとって、死は終わりではなく、ただキリストとの親しい交わりという、生命への戸口です。私たちの主イエス様は、人間となられ、イエス様ご自身は人間と同じ死を通過して行かれました。人間が通過していく死の経験をされた主イエス様ですから、死がどうゆうものだかつぶさに、知り抜いておられます。
「死の陰の谷を歩むことがあっても」ですからダビデは通常は明るい道を行くのだが、時には暗い谷を歩むことがあるという意味があります。また死という谷を通過していく、死の陰の谷の先があることも意味しています。
 死という災いをおそれません、なぜなら「あなたが、」主なる神が「ともにおられますから」とダビデは歌います。死の陰の谷を通過していく羊には、必ず良い羊飼いが付いています。否、良い羊飼いは夏の暑い低地を避け、涼い高地に自分の羊たちを導いて行く、その時に主なる神は共に死の陰の谷を通過して行くのです。

私の家内も、約七年間、大腸癌との闘いという暗い谷を通過して行きました。2010年大腸癌発覚、肝臓にも転移していましたので、胃に近い結腸と呼ばれる大腸の一部と肝臓の一部を切除する手術が2011年になされ、癌部はすべて取り除いたと医師は診断しましたが、一年後、2012年再発が肺に見られ、六年間に渡り抗癌剤治療がなされました。幸いと言うか不幸にもと言うべきか、家内に癌が見つかった同時期、慢性腎炎であった家内は、この年2011年の年初から腎不全となり、人工透析を受ける身となりました。公から身体障害者の認定を受け、成田市では身体障害者の治療費は、人工透析に限らずほぼ全額を公が負担してくれました。抗癌剤治療は、大変高額です。家内には辛い日々が続きました。抗癌剤の副作用に見舞われ、髪の毛は抜け落ち、肌はほぼ全身に痒みが出、食欲減退、だるさなどに悩まされました。そして、抗癌剤治療によっては、癌細胞は消えず、否2016年の夏から癌細胞は活発化し、2017年4月、天に召されました。月曜日の朝でした。抗癌剤治療を施して下さった主治医のドクターがたまたま緩和棟に居る家内を見舞ってくださり、家内はもう半意識状態でしたが、「ありがとう」とかすかにつぶやき、やすらかな顔になって、ふっと息を吐き、そのまま永遠への眠りにつきました。
聖書では、人の死は、肉体と霊の分離を指します。”死とは肉体と霊の分離である”と直接的表現は聖書にはありません。しかしルカの福音書16章19~31節(金持ちとラザロ)を見ますと、死後の世界を垣間見ることができ、肉体から霊が分離することを私たちは知ることができます。家内は、最後の6年間ほどは、暗い谷のようなところを通っていくような日々でした。まさに「死の陰の谷」を通過して行きました。

 御国を目指す私たちクリスチャン生活の中で、私たちは神と共にいる、より高い地に移る願いを基本的に持っています。私たちが、人生の低地よりも、高いところで生きることをどれほど望むことでしょうか。平凡な群衆を超えたところに到達したい、もっと親しく神と交わる日々を送りたいと願います。できるならば私たちは山頂の経験について語り、その高みに登り、より崇高な人生に入った先達の方々を羨みます。けれども私たちはしばしばそれがどのように起こるかについて、間違った考えを持ちます。より高いところにパッと一足飛びに運ばれていくということができると思っています。その可能性はありますが、それはまずありません。キリスト者生活の通っていく厳しい道では、ひとっ飛びに御国に導かれるという事はまずありません。
羊たちの管理の場合と同じように、神の民の場合にもそれが当てはまります。山と山の間の谷を上っていくことによってのみ、人は高地を自分のものとすることができるのです。山には谷があります。山は深い峡谷や谷間でひだがつけられています。こういう谷に沿って登るのが、高地に達するための最上の道であることを、牧羊家ならば誰でも知っています。牧羊家は羊の群れを優しく、かつ粘り強く暗い谷を、曲がりくねって上っていく道を連れて行きます。注意していただきたいのは、「死の陰の谷を歩むとしても」と言っているのであって、そこで死ぬとか、止まるとかは言っていないのです。そこを通っていく、通過していくと唄っているのです。普通この聖句は暗い谷を通っている人々への慰めのために用いられることが多い。しかしこの場合でも神の子達にとっては、死は終わりではなく、ただキリストとの親しい交わりという、より高い、高揚された生への戸口です。死は神の御許にある永遠の、明るい喜びへの入り口となっている暗い谷なのです。それは恐ろしいことではなく、より完全な生への道であり、通過するべき一つの経験です。良い牧者であるイエスキリストはそれを知っておられます。「見よ。わたしはいつもあなたがたとともにいます。」マタイ27章20節 と言われたその理由は、実に死の谷においてさえ主イエス様が共におられると言われたのです。何という慰めでしょうか。何という明るい励ましでしょうか。

羊が谷を通って高地に導かれる理由として第二にあげたいことは、それは最も登りやすい道であるだけでなく、水に恵まれた道でもあるからです。ここには道すがら、いつでも爽やかな水を得ることができます。深山の細い道には、小川がありせせらぎがあり、泉や静かな池があります。夏の間の長い旅は、暑くて疲れやすいものです。羊たちの群れは激しい渇きを覚えます。谷に沿って、何度でも水飲み場があってこそ、そこで元気を回復することができるのは、羊たちにとって何という喜びでしょうか。少し脱線しますが、登山家は山に登るのは尾根伝いに登り、下山するには谷には降りないのが鉄則です。登山家は水筒を携行しますが、羊たちは水筒を持つことはないのです。
キリスト者として、私たちは早かれ遅かれ、人生の谷に導かれます。私たちがまさに死の陰の谷いる時にこそ、私たちは神ご自身が癒し、元気付けてくださることを悟るのです。何か非常に深刻な問題を主イエスと共に歩いて通った時に、初めて主イエス様は私たちの困難の中でさえ、いやまさにそこで私たちを導き、主ご自身のうちに私たちを生かす力を見いだすようにされます。そのことに気がついた人は幸いです。主ご自身の霊、恵み深い御霊から、私たちの心と魂に回復が来る時、私たちは言葉では言い尽くせない感動を覚えます。
家内が病気の間そして死後、私は神の恵み深い御霊ご自身の臨在によって、刻一刻、力と慰めと落ち着いたものの見方が、私に与えられていたことを思い出します。確かに明るい時ではありませんでした。まさに「死の陰の谷」を通過して行ったのです。死の陰の谷を通ったことのある者だけが、同じような状況にある他の人々を和らげ、慰め励ますことができます。水が谷でこそ流れる、尾根には水は流れないように、キリスト者の生涯において、神の命が、激しい苦しみの経験によって、死の陰の谷を通過する経験によって私たちの生涯に刻み込まれ、追い込まれた谷を通ってこそ、神の祝福の中に入れられていくのです。愛するものを失ったことのある人は、死別の悲しみの中にある人を最もよく慰めることができるのです。心の傷ついた人のために最も役立つ人は、心の傷ついたことのある人たちなのです。私たちは大抵の場合、自分の生活の中に谷が生じることを願いません。恐れたり、悪いことを予感して、しりごみします。それでも私たちの最悪の不信にもかかわらず、神にはそれらの谷を通して他の人々への大きな益といつまでも続く祝福をもたらすことができます。暗い事柄、悩みの日を避けようとするのは良い事ではありません。もちろん暗い事柄や悩みを求める必要はありません。しかし、それが私たち自身と私たちの周囲にいる人々に、最大の新しい力が授けられ、苦しみに耐える道となることになるのです。

 良い羊飼いはその群れを高地に連れて行くのに死の陰の谷を選ぶ第三の理由は、大抵の場合その道は途中で最も豊かな牧草や最良のかいばを得ることができるところだからです。羊の群れは静かに移動します。羊たちはせかせられることはありません。まだこの谷に来たことのない子羊が一緒にいます。良い牧者はそこに確実に水があるだけではなく、その道筋に沿って、子羊が最も良い草にありつけるところでもあります。最も質の良い牧草地は、小川の岸に沿う谷間にあります。ここで羊たちは高地に向かって移動しながらも草を食べることができるのです。
これらの草の多い湿地は多くの場合絶壁の峡谷や渓谷の河川敷にあります。両側にそそり立つ崖があるかもしれませんし、谷の床自体は、真昼の2~3時間の外は、光が差し込まない、谷底まで光は届かない暗い影の中にあるかもしれません。良い羊飼いは過去の経験からコヨーテ、熊、狼などの羊を襲う動物が谷で待ち伏せし、羊たちを狙うことができることを知っています。またこれらの谷では突然嵐が起こり水が溢れて、鉄砲水が斜面を猛り狂うこともあります。土石流の流れや崖崩れなど様々な自然災害が羊たちをダメにしたり傷つけたりすることがあります。しかし良い羊飼いはそのような危険にもかかわらず、羊たちの群れを高地に連れて行く最上の道はこれしかないということも知っています。良い羊飼いはどんな痛みや労苦もいとわず、時を惜しまずに大きく目を開いて、起こるかもしれない危険に備えます。最も恐ろしい脅威の一つは、山頂から降りて、谷を吹きまくる不意に襲ってくるみぞれ雨雪などの嵐です。羊が凍てつくような雨でびっしょり濡れ、体を冷や冷えると、そのまま探しておけば、ごく短時間に死んでしまうことがあります。羊の肌は薄く、すぐ風邪をひきやすく、肺炎やその他の呼吸器障害を起こします。そのような嵐にもかかわらずまた死の陰の谷が持っているリスクにもかかわらず、そこは羊たちが最もよく育つ所でもあり高地につながる道でもあります。私たちの良い羊飼い主イエスキリストは、ご自身で死の陰の谷を通って私たちを導かれるときに、このすべてを知っておられます。私たちが周りでいつでも災難が襲いかかろうとしているにもかかわらず、羊たちが力と支えを得、静かに草をはむことができるのは、どこかを知っておられるのです。神の子である者にとって、死の陰の谷の中にさえ、力と勇気の源泉があることを発見するのは、本当に安心のいく、力づけられる経験です。神の子に新しい信頼が生じるのは自分の生涯を振り返り、良い羊飼いの御手が最も暗い時にも差し伸べられていたことを悟る時なのです。人生を振り返ってみて、人生のあらゆる危機、寒さの身に染みる環境の中で、主が私たちに真実であられたことを味わう時ほど、天の父なる神への信頼感が沸き上がる事はありません。何度も、主は私を幸いのために配慮し、心を用いて下さいました。暗い日々、死の陰の谷を歩むような私たちを導いてくださったことを、私たちは気づくことでしょう。その全てが私のキリストへの信頼を増し加えました。私が人生の嵐や逆境に、情緒的な意味で、精神的な意味だけでなく、霊的な意味でもさらされたことが、私のあり方そのものに力と知恵を与えます。主イエス様が以前、恐れなく通り抜け出させてくださったのですから、主はもう一度いや何度でもそうさせてくださることができます。その確信があると、恐れは消えて行き、心と思いに冷静さが生じてきます。何でも来い、嵐は私のまわりに吹きまくり、掠奪者は攻撃を仕掛け、逆流する川は、私を覆うでしょう。
詩篇の記者はこう唄っています。「苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。それにより 私はあなたのおきてを学びました。」詩篇119篇71節
今の私たちも苦しみの時、死の陰の谷のようなところを通ることがあるでしょう。多くの人が人生の嵐に揺られ、恐れ驚いて、冷静さを失います。私たちはキリストに信頼していると主張しますがしかし、実際に暗い影が私たちの上を取り始めると、私たちの歩む道が暗く見えると、私たちは絶望のどん底に落ちてしまいます。ときにはそこで倒れたまま死んでしまうような気持ちにもなります。しかしそうではあってはなりません。根本的な問題は私たちに谷が多くあるか、少ないかではありません。またそれらの谷が暗いか、あるいは影になっていて薄暗いだけかという事でもありません。問題は私たちがそれにどう対応するか、どのようにそれを通り抜けるか、私の道に現れる災害にどう対処するかなのです。
主イエス様がその状況の中でも、共におられるので、私たちは恐れる事はありません。このように考え、言葉にし、祈りつつ生きるならば、神と共にある清い、静かな、健全な生活が生れ、御言葉によりそれが裏づけられて、信仰生活が習慣化します。このように生きることを知ったキリスト者は、周囲の弱い人々を励まし、力づけることができます。キリストに力強く信頼している人、過去の経験によって神は逆境の中で共にいてくださることを確かに知っている人、人生の暗い谷にあっても、頭を高く上げて、恐れないで通り抜けていこうではありませんか。その人は今度は仲間の人々へ、力と勇気を与える源となります。私たちすべてのクリスチャンにとって、人生にはいくつかの谷があるでしょう。良い羊飼いはご自身でこう言われます。

「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」ヨハネ16章33節 そう言って主イエス様は、私たちに保証を与えておられるのです。私たちはキリストと共にいて、私たちはそれらを平静に直面します。私たちを導く主の恵み深い御霊と共に、私たちは恐れずにそれに直面します。私たちはそれらを通してのみ、神と共にある高地への旅をすることができるという事を確かに知っています。このようにして、私たちが自分が祝福を受けるだけでなく、かえって恐れの谷の中で生き生きとしています。そして死の陰の谷を歩む事は、私たちの周囲にいる他の人々への祝福となるのです。
ダビデが「たとえ 死の陰の谷を歩むとしても、私はわざわいを恐れません。」と唄ったように、死の陰の谷を通過する羊である私たちも「たとえ 死の陰の谷を歩むとしても、私はわざわいを恐れません。あなたが ともにおられますから」と高らかに主イエス様を賛美しようではありませんか。


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 説教「義の道に導く主」詩篇23篇連続説教⑥

聖書箇所  詩篇23篇3節b
御名のゆえに、わたしを義の道に導かれます。新改訳2017
み名のためにわたしを正しい道に導かれる。口語訳
御名にふさわしく、正しい道へと導かれる。共同訳
He leads me in the paths of rightousess[uprightness and right standing with Him-not for my earning it,but]for His name’s sake. AMP

「御名のゆえに」と新改訳2017は訳し、「御名にふさわしく」と共同訳は訳し、口語訳聖書では「み名のために」とし三者三様の訳し方をしています。
主なる神の名前のゆえに、主なる神のお名前にふさわしく、主なる神の名前のために。
名前というのは、不思議なもので、名は体を現すと日本語では言い、体というのは、本体とか体格というように、中身なり本質を現すものです。自然界にあっても、特別なものには、固有名詞を名前として付けます。日本一高い山、富士山と名付けています。もともとは、不ニ山、二つとない山と書いていましたが、不ニが富士にいつの間にか変わりました。人には、一人ひとりに名前が付けられていています。例外はあるでしょうが、
それはさておき、主なる神のお名前は、何か。旧約聖書には、モーセが初めて神と邂逅した際、神とモーセの対話がなされた後、モーセは、「わたしがエジプトに戻って、イスラエルの民に、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは、その名は何かと私に聞くでしょう。」と言って、「私はイスラエルの方々に何と答えればいいか」と質問しました。すると神はモーセに答えて、「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」出エジプト記3章13~15節
新約聖書では、私たちの主なる神はのお名前は、イエスです。
マタイによる福音書1章20節に、イエス様の命名の由来が書かれています。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリヤをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」と天使から言われたので、ヨセフは聖霊によってマリヤが身籠った神の御子を「イエス」と名ずけました。そして、聖書は「『見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』それは訳すと『神が私たちとともにおられる』という意味である。」と語ります。
 モーセに現れなさった「わたしはある」という神様も、またこうも言われました。「わたしが、あなたとともにいる。」と父なる神も、主イスエ様も、私たち人間と常に共に居ると言われる神なのです。
 その神が、義の道に、正しい道に導いてくださるとこの詩篇23篇の作者ダビデは言っているのです。

羊は、どこでもうまくやっていけると思っている人が多いのですが、これは大きな間違いです。本当のところは、それとまさに正反対です。羊ほど綿密な取り扱いと細々(こまごま)とした指示を必要とする動物は他にいません。ダビデは彼自身羊飼いで、その厳しい体験から、それを直接学び取っていたに違いありません。羊の群れを繁栄させ、牧場主が良い管理者として高く評価されるためには、羊を行き届いた管理と指導のもとに常に置いておかなければならないことを、ダビデは知っていたました。
羊は、大変なくせのある動物です。牧場で羊たちを放し飼いにして、羊たちのほしいままにすると、羊たちは毎日同じ草場に行き、自分の好きな草を食べる。しかも畜舎から草場に行くルートはいつも決まっていて、羊たちは必ず同じルートをたどる。好みの草場に着くと、自分の好みの草の葉の部分を食べる。翌日はまた同じルートを通り、昨日と同じ草場にいき、好みの草の茎の部分を食べる。翌々日には、また同じルートをたどり、今度は草の根をほじくりだして食べる。こんなことを繰り返していると、やがて羊たちがたどったルートには、道筋がつき、溝になる。草場は草が生えなくなり、羊が放し飼いにされた土地は、草が再生できず、羊がまき散らす糞が堆積し、害虫と病原菌が発生する。羊たち自身も食べる草がなくなり、害虫に悩まされ、病気に陥ってしまう。
特定の気に入った地点を選り好みするというこの羊の習性のために、もし羊たちを思うがままにしておくならば、放し飼いのような飼い方をするならば、その地域は急速に衰え、いろいろな種類の寄生虫で汚染されます。短期間のうちに、羊の群れ全体がこのように昆虫や病害虫などで汚染されることがしばしばあります。そして羊は痩せ衰え、病気になり、羊だけでなく土地もさらに持ち主も破滅します。賢い羊飼いはその全てを知っています。羊たちの幸い、土地の健全さを守るためばかりでなく、羊飼い自身のために、またその名声のために、羊飼いはこれらの逆らうような羊の習性に対抗して、必要な予防措置をとります。羊の特定の気に入った地点を好むその習性はそれだけで非常に重大な危険を孕んでいます。

これらを防ぐためには、羊たちを、一週間ごとに草場を変えていくという綿密な管理が必要なのです。良い羊飼いは、羊たちが草場で草を食い尽くさないよう、また羊たちが通う道が溝にならないよう、定期的に草場を変えます。そのために羊の群れの移動について綿密な計画を立て、その計画に従い羊たちを導いていきます。そうすることにより、羊たちは健康になり、また大地も適度な肥により緑豊かな土地になるのです。良い羊飼いは自分が経営する牧場のさまざまの面で、羊たちを移動するという事に、綿密なかつ日々の努力と注意を傾けます。羊たちが草を食べている牧草地を歩いて回り、草の成長と草が食べられる度合いとの微妙なバランスを観察することは、良い羊飼いにとって欠かすことができない日々の働きです。そして良い羊飼いは自分の牧草地について詳しく知っていなければなりません。良い羊飼いは自分が支配する土地全体に何度も足を運びその利点もその欠点もそれぞれ良く知っており、羊がどこでよく育つか、草が十分にないのはどこかに気がついています。

「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。」イザヤ53章6節 とあります。自分勝手な道というのは、要するに自分のしたいことをするということです。
羊が先天的にあるいは習慣的に愚かしくも同じ小さな通り道を行って、その道が溝になりついにはその土地を破壊するように、人間の自分勝手な振る舞いが、自分自身を破滅へと導いていき、かつまわりの社会的な環境も荒れていく。そのことに気がついてはいても、その自分勝手な習慣にしがみつくのが人間です。自分勝手な道と言うのは、つまり自分の願望を主張し、自分の考えを実行する、その自由も持っていると考えることも含んでいます。そして人はあらゆる警告にもかかわらず自分勝手な道を歩もうとする。
 
 また箴言14章12節には
「人の目にはまっすぐに見えるが、その終わりが死となる道がある。」この御言葉は、同16章25節にも記されており、終着が死となるまっすぐに見える道があるから気を付けなさいという警告なのでしょう。私たちの主は、義の道に導かれます。しかし悪魔は、不義の道に誘います。
自分勝手な道は、滅びに行きつき、主イエス様が導く道はいのちの道、永遠の命に至る道です。どんな道かについては、次回詳しく語りたいと思いますが、繰り返しになりますが、主イエス様が誘う(いざなう)道は、義の道であり、知恵の道であり(箴言4章11節)また公正の道(箴言8章20節)です。御国に行き着く道です。そして、「御名のゆえに」ですから、署名捺印は主イエス様だということです。つまり、神ご自身が義の道に私たちを間違いなく導くと保証付きで言っておられるのです。神のお言葉は、必ずその通りに成ります。神の預言すなわち聖書の言葉は、成就するのです。もうすでに成就した言葉もあります。
ですから、「義の道」「正しい道」とは、御言葉の道、神のお言葉による道と言うことができるでしょう。

しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。イザヤ40章31節
主の道を行く者は、日々刻々、私たちの求めに応じてくださる主から、御言葉、知恵、力が与えられ、主の道、それが陸路であれ、空路であれ、途絶えることなく、永遠、御国、新天新地、究極の神の支配へ繋がっている。

良い羊飼いである主イエスキリストは、静かに来られてこう言われます。「わたしが道であり、真理であり命なのです。わたしを通してでなければ、誰ひとり父なる神の身元に来ることがありません。」ヨハネ14章6節 またこうも言われます。「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」ヨハネ10章10節
主イエス様は、「わたしが道です。」と言われるのです。
主はどのように私たちを義の道に導かれるか、
「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳をのませる羊を優しく導く。」イザヤ書40章11節 主イエス様は、羊飼いのように、その群れすなわち教会を飼い、群れの中の小羊を、ご自身の腕に抱き、乳飲み児のような生まれたての赤ちゃん羊は、ご自身の懐に抱きながら、群れを導いていきます。一人前に成長した羊はほったらかしにするかというとそうではない。主はこうも言われます「わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。」ヨハネ10章27節 子羊たちは毎日飼い主の声を聞いて育つのですから、羊飼いの声かどうか聞き分けることができるようになり、一人歩きできるようになれば、羊飼いの声に従っていくことができます。成長したクリスチャンは常に主イエス様の声を聞いて、義の道、正しい道を歩むことができるのです。迷い出てしまった羊を良い羊飼いである主イエス様は、捜し出してくださいます。前回知らせしました通り、倒れた羊をも起き上がらせてもくださいます。
「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。」イザヤ40章31節 のです。
主の道を行く者は、日々刻々、私たちの求めに応じてくださる主から、御言葉、知恵、力が与えられ、義の道を行き、それは陸路であれ、海路であれ、途絶えることなく、永遠、御国、新天新地、究極の神の支配へ繋がっている道なのです。
良い羊飼いなる主イエス様に従っていく、私たち羊たちは、義の道に導かれ、やがて御国へと導かれます。
「御名のゆえに、わたしを義の道に導かれます。」


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 説教「倒れる羊を活かす主」 詩篇23篇連続説教⑤
  2023年6月4日 黒澤俊人勧士

聖書箇所 
主はわたしのたましいを生きかえらせ、口語訳
主は私のたましいを生き返らせ、新改訳2017
主は私の魂を生き返らせ、共同訳
He refreshes and restores my life (myself); AMP
he restores my soul NIV

 先週(5月28日)には、東京聖書学院教会の公開ユーチューブを視聴し、私たちの別府キリスト教会でも、ペンテコステ礼拝をささげました。説教を取次いでくださいました齋藤善樹牧師は、「罪と死の法則を打ち破るようにして、聖霊がくだり、キリスト・イエスにあるいのちの法則が御霊によって、この地上にもたらされ、教会が始められた」と語られました。
その御霊の働きが、ダビデにも働いて、先程朗読していただきました詩篇23篇が書かれたものと思います。今日は、詩篇23篇3節前半の御言葉「主はわたしのたましいを生き返らせ」から語りたいと思いますが、1から2節の御言葉が、良い羊飼いに飼われている羊たち、憩いの汀で命の水に与る、緑の牧場、そのような耳に心地よい光景でしたが、この3節に入るや否や、作者ダビデは、「主は私の魂を生き返らせ」と記し、神と人との関係に切り変えています。

「主はわたしのたましいを生きかえらせ」と歌ったその意味は、死んでしまったのに生き返ったということではなく、死んだ人のように動かなくなっていたが、命の水を飲んで活き返り、心身ともに躍動感あふれる存在になったということです。
 この詩篇を書いたダビデ自身、自分のたどってきた道は、常に順風満帆であったのではなかった。若くして功を挙げましたが、昇竜の如く駆け上がったのではない。むしろ嫉妬され、意地悪され、反発を受け、反逆されることが多々あり、ダビデはその都度、挫折感を覚えたり、孤独心を味わったことでしょう。そのような中でも、ダビデは主に頼り、主はダビデに応えて、適宜、知恵を授けられ、ダビデは困難な局面を逃れることができました。ダビデは、死んだようになっていた時に、主は生き返らせる力を下さる、いな半死状態の時にこそ力を発揮して自分を活き返らせて下さるお方であることを体験したのです。
 そして、この体験は、青少年時代に羊飼いであったときに、自分が飼っていた羊たちがしばしば倒れて、仰向けになったら、起き上がれない羊をダビデは起きあがらせた、それも特定の羊が倒れるのではなく、どの羊であってもしばしば倒れることを知っていたからでもあります。そして倒れて、起きあがろうとするも、なかなか起き上がれない羊を起きあがらせるのは大変な作業であることを、ダビデは知っていました。
実際に羊は、よく倒れる動物です。一旦倒れるとなかなか立ち上がることが出来ない。
犬を飼っていた私は、愛犬を原っぱに連れ出すと、背中がかゆいせいか、よく仰向けにころがる仕草をしていました。ひととおりころげまわると、背中をねじらせ、足を踏ん張り造作なく立ち上がったものです。猫にいたっては、体が非常に柔らかいので、倒れるなどということはないくらいです。しかし、羊の場合は全く異なり、倒れて仰向けになったら、なかなか立ち上がることは難しい動物なのです。

羊飼いの重要な仕事のひとつに、毎日、否一日に二回三回と羊の群れの数を数える仕事があります。数が足りない場合は、羊飼いの目が届かない場所で、起き上がれずもがいている羊が必ずいるそうです。羊が倒れる理由はいろいろとありますが、牧羊家は三つその理由を挙げています。
第一に、横になるからです。休むために、縦に伏せれば問題ないのに、ごろりと体を横たえると羊にとっては大問題となります。犬、猫のように体が柔らかく曲げることが難しいものですから、四つ足が宙に浮いて、足底が地面に付くことがかなわない。羊は、起きあがろうとする、足が宙に浮き、ジタバタするのみ。体をくねらせ、足を必至にバタつかせても、起き上がれない事態は変わらない。その内、下腹部にガスが溜まるのだそうで、曇りの日なら二、三日間は何とか生き延びられますが、夏の暑い日には数時間後、脱水状態に陥り、死に至ります。
第二に、毛が多すぎると倒れやすくなります。絵に描いた羊は、こんもりとした白い毛かふさふさした描写ですが、実際の羊毛たるや、羊毛にはほこりがたかり、大地の土がべっとり付着しているきたない羊毛です。羊の自重の他に毛についたほこり、土の分まで足に負担がかかります。倒れて、起きあがろうとする時に余計な力が必要になります。
 羊毛が伸び過ぎる直前に羊飼いは、毛を刈り取り、丸裸にします。羊は毛を刈り取られることを嫌がります。また羊飼いにとっては嫌がる羊の毛を刈り取る作業は、辛いものがあります。しかし、刈り取られた後は、体が軽くなって、羊は軽快に動き回ることが可能になるのです。
第三に、太り過ぎている場合も同様に倒れやすくなります。草を食べすぎて、適度な体重を超えて太り過ぎると、倒れやすくなります。
羊飼いは、倒れている羊を見て、すぐに立ち上がるように手助けをします。「今度だけだぞ、この次倒れたら、知らんぞ」とは言っても、羊飼いなら何度でも立ち上がらせます。

 この光景は、羊のようなクリスチャンが、信仰の歩み、霊的に倒れることがあり、良い羊飼いである主イエスキリストが何度となく、助けの御手を差し伸べることを表す漫画です。
 第一の、羊が横になるというのは、私たち、クリスチャンが緊張感のない、安逸な生活、悪く言えばわがままな信仰に陥ることを暗示しています。あるいは倒れたとしてもまた自分の力で立ち上がることができると考える傲慢さを警告しています。周りはえさだらけ、だから私が横になって口を開けていれば自然に餌が口に入ってくる、などと言う事は無いはずです。羊は四つ足で立っておいしそうな草のところに行って草をはむのです。もちろん休息も必要でしょう。その時でもごろりと横になったらば、危ういのです。教会で説教を聞く、それも必要です。しかしお一人お一人が主体的に聖書の御言葉を味わい自分のものとする、この努力を怠ってはなりません。
 第二の、羊の毛が伸び過ぎて、その羊毛に土やほこりなどでまみれた羊は、私たち、クリスチャンがこの世の習い、思想、魔術などに染まり、きよさを失うことを象徴しています。私たちは、この世にあって生きていますか、この世に従って生きているのではありません。
羊毛というのは、聖書によると、古い自我とその生活を表しています。自分の欲望、個人的望み、野望の主張であり、それらは自らを重くし、霊的な健全さを圧迫します。旧約聖書では、大祭司が聖所に入る際には、亜麻布の祭服をまとい、羊毛の服を着ることは禁じられていました。出エジプト記28章 またイスラエルの民が着る服は、羊毛と亜麻糸を混ぜて織った衣服を着てはならない掟があります。申命記22章11節 自分を誇ること、個人的好みを誇張表するのを、神は多めに見ることは出来ないのです。自分の羊が泥まみれの汚い羊毛を、良い羊飼いは、刈り取ります。羊は自分の毛が刈り取られるのを嫌がりますが、泥まみれの汚い毛が刈り取られて、まる裸にされますと、羊たちは、体が軽くなり、自由に行動できる喜びに、嬉しそうに鳴きます。
 第三の、太り過ぎた羊とは、この世の宝、お金、財産、才能に恵まれ過ぎて、主なる神に心することが薄れ、信仰の道からそれていく魂を表しています。私たちクリスチャンは、神と富と双方に仕えることは出来ないのです。この世で成功する事は、霊的な健全さを測る物差しではありません。物質的な、表面的な繁栄成功は、真の敬虔の基準にはなりません。よき牧者である主イエス様は、私たちに一定の食事制限や訓練を課すことがあります。私たちクリスチャンはその制限や訓練を最初はかなりきつく、ある方には不愉快なことと思うことがあるかもしれません。しかし、主は私たちを喜んでくださるゆえに、その制限や訓練は私たちの霊的成長、生育のためには欠くことが出来ない過程なのです。ヘブル人への手紙12章には、父なる神が私たちクリスチャンを世継ぎとするために、私たちを訓練なさることを記しています。
「『我が子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛するものを訓練し、受け入れるすべての子に鞭を加えられるのだから。』訓練として耐え忍びなさい。神はあなた方を子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。もしあなた方が、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。」ヘブル12章5~8節
 節制をおこたったり、気のゆるみからこの世の誘惑に負けたりして、私たちクリスチャンも倒れてしまうこがあります。倒れた時どうするか。ひたすら主イエス様の助けを求める以外に起き上がることはできないのです。でもご安心ください。主なる神ご自身は、私たちひとりびとりを希少かつ貴重な存在として見ておられ、それが故に、良い羊飼いである主は、倒れてもがえている羊を探し求め、立ち上がらせ、ご自身の肩に背負って、再び緑の牧場、憩いの汀に連れ戻されるお方なのです。
 主なる神が、私たちの主イエス様がどのようにして倒れた羊を助けだすか、それを示す新約聖書の御言葉があります。主ご自身のお言葉です。聖書をお開きください。マタイによる福音書18章12節から14節 
「あなたがたはどう思いますか。もしある人に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。まことにあなたがたに言います。もしその羊を見つけたなら、その人は、迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜びます。このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなた方の父のみこころではありません。」
ダビデは、羊飼いたる者、常に群れの数を数え、自分の羊が一匹たりとも、欠けているならば、すぐに捜しに出て行くことを心がけていました。
 そして、主なる神が、羊である自分が迷いでてしまった時に、活き返らせてくださった、主の恵みを、ダビデは畏れの心を持って感謝したのです。
 主イエスキリスト様も、この世の富、この世の楽しみに、その魂が腐りかけている方、あるいは傲慢ゆえに失敗し、倒されてしまった方を訪ね出して、活き返らせてくださいます。
 主なる神は愛なる方であり私たちを困難な時にあるいは倒れたときに助け出してくださるならば、私たちは倒れてもいいんだ、自分は神様が助けてくださるから倒れていいんだと考えてはなりません。それは、神をあなどることに他なりません。そのような神様に対する傲慢な態度を取ってはなりません。常に私たちに力を与え恵みを下さる主に感謝して、主が示される私たちの使命を慎んでなしていこうではありませんか。そしてこの世の習いこの世の快楽に浸るのではなくして、神の言葉聖書の御言葉に生かされて、主から来る祝福のうちに歩みを進めていこうではありませんか。もし、倒れてしまった、命の危機に遭遇してしまった、己れの傲慢のせいだ、この世の悪に染まってしまった、あるいは神様よりお金に頼った、力に頼ったせいで、倒れてしまった。そう思ったら、主なる神の前に出て悔い改めましょう。
羊が倒れ、ジタバタしてはかえって起き上がりづらくなるのと同様、私たちクリスチャンが倒れたとき、ジタバタせず、落ち着いて静かにして、主なる神の救いの御手に自らを委ねたいものです。私たちは、自分で自分を救い出すことはできないのです。主なる神から離れては私たちは何一つ出来ない弱い羊であることを認識し、生きる知恵と力をくださる主なる神の憐れみを乞いましょう。
主はわたしのたましいを活き返らせてくださる方なのです。


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  説教「主が下さる命の水」 詩篇23篇講解説教➃
   2023年5月21日 黒澤俊人勧士​  
聖書箇所 詩篇23篇2節b いこいのみぎわに伴われます。新改訳2017

神と人の関係は、羊飼いと羊の関係によく似ていると、この詩篇23篇は、そのように記され、2節は、「主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。」と記し、2節の前半には「緑の牧場」という、聖書が書かれた風土である乾燥地帯には珍しい青々とした、羊たちが安心して暮らせる緑豊かな牧場を思い起こさせます。
2節の後半の意味するところは、良い羊飼いは羊たちが飲む良質の水があるみぎわに、羊たちを連れて行く、そのみぎわはまた憩いの場でもある、ということです。
今日は、詩篇23篇2節後半の「憩いの汀に伴われる」の短い御言葉から、「主が下さる命の水」と題してお話し、憩いの汀に私たちひとりびとりを招き、私たちに伴ってくださる主イエス様を礼拝したいと思います。

2節の後半には「いこいのみぎわに伴われる」とあり、緑の牧場には、羊の食べる草は充分あるが、羊が飲む水はないようです。
羊の体は、水が70パーセント。人もほぼ同じ。残りの30パーセントは皮膚、臓器、骨などの固体でできており、液体7、固体3という比率が生命体には最上の比率なのでしょう。液体である水の比率が下がると、羊も人間も渇きを覚える。
日本は周囲を海で囲まれた島国、湿潤な風土ですから、日本人はそもそも渇くということがあまりなく、渇くということがどうゆうことなのか、よくわからない。特に別府は温泉地、地面から泉が湧きあがる、それも温水が豊富にそこかしこから湧きあがる土地です。また大分県は日本一の温泉県でもあります。水を湯水の如く使い、それが当たり前のように思っています。綺麗な水が湧き出る、神の恵みに慣れっこになっています。
オアシスという言葉がありますが、日本では清らかな渓流がいたるところにあり、平野には大河がゆったりと絶えることなく、豊富に流れていますから、地の全面がオアシスみたいなものです。
ところが聖書が書かれた背景地であるイスラエルとその周辺地域は、乾燥した気候風土です。ですから、オアシスはところどころにしか点在しませんし、オアシスから湧き出る水、それも別府温泉のようにドドドと勢いよく噴き出すのではない、チョロチョロと湧き出すようなものです。ですからオアシスの水、聖書が記す水とは、希少かつ貴重なものなのです。
飲み水としての水は、どんな水でもいいのではありません。無色透明な水でさえも、硬水、軟水と分類され飲み水として適正な水は限られます。
 前回、朝露に濡れた牧草を食べれば、羊たちは一日中喉が渇くことはないと申しあげました。
平和で落ち着いた生活をする人、確信に満ちた安らかな人、複雑な人生に対処できる人々、そのような人たちは毎朝早く起きて、神の言葉を食べる人たちです。彼らが静かな憩いの水のほとりに導かれ、その憩いの汀で、その日のために、キリストの命を吸収するのは、静かな朝早いときの事です。この実際的な現実を踏まえた方々は、偉大な人たちであり、充実した日々を送る秘訣、成功した人生を送る秘訣が毎朝のデボーション、静思の時にあることを知っています。憩いの汀でひとり静かに主を待っていると、主がその人の魂に命の水を注がれます。毎朝の静思、キリストとの交わりの時間の後、その人は身も、心も、霊も生気に満ち、渇きは癒されます。主もまた、その人が憩いの汀で生気に満ち、渇きが癒やされるのを喜ばれます。
 
ところが、朝露に牧草が濡れる日々が毎日続くことはまずありません。海からの風が吹かなくなり、朝露を結ばない季節になりますと朝露は期待できない。人間も同じですが、羊も食物はなくても何日かは生きて行けますが、水なしでは何日も生きていけません。まる一日必要な水分を摂取しませんと、脱水症状が現れ、体に異変が生じ、三日もすれば死に至ります。羊飼いは自分の羊たちに良質の水を飲ませるため、牧場から羊たちを導き出し、良質な水がある水場、すなわち憩いの汀に連れていきます。
汀とは、正に水のすぐそばの場所を言います。水から離れた場所は、言うまでもなく、汀ではありません。文語訳聖書では、水濱と表記し、水と隣接するところを指します。羊が飲めるきれいな水のすぐそばです。海辺は、海水は飲めませんから、これまた汀ではないのです。

霊もまた水が不可欠です。霊にとってもまた、どの水でもいいというわけではありません。霊の成長、維持に適正な水は限られています。良い羊飼いは、羊の渇きを癒すために、良質な水がある憩いのみぎわに自分の羊たちを導いていくのです。憩いの汀がどこにあるのかを熟知しているのが良い羊飼いです。霊に不可欠のかつ良い水とは、神の愛、魂に対する神の言葉、聖霊の働きです。ですから、汀とは、主なる神のそば、キリストと接している時空、御言葉という湖の湖畔、あるいは小川のほとり、きれいな泉の傍です。ひとりびとりに不可欠な水は、主なる神が知っておられかつ主なる神がご用意なさる。
主のみが、命の水を供給します。人間が作るものは、心は一時的に満足させるものであって、霊を満たしかつ永遠の生命につながるものではありません。主のみぎわから飲む水が私たちを活かし、私たちがその水を飲む光景は、主が喜ばれる光景です。 

体は、体に良いものにより成長し養われる。飲み水として適切かどうかは、日本人に限らず世界中の人々が注意を払う。わたしも、健康に良い、かつおいしい水を求めています。幸い、大分県にはおいしい水がそこかしこにあります。心は、心に良いものによって成長し、養われる。霊も当然のことながら霊にとって良いものによって成長し、養われる。
 では、霊にとって良い水とは、具体的には何でしょうか。それは、きよい聖霊であり、神のお言葉です。きよい聖霊は、主イエス様の霊ですから、主イエス様と交わるときに聖霊に与ることができ、聖書を神の言葉として読む時に神のお言葉をいただくことができます。

おひとりびとりが個人としてこの水に預かるとともに、そのお一人お一人が集まっているこの別府キリスト教会全体もまた主のくださる水に預かりたいと思っています。
霊にとって、良い、かつおいしい水は何ですか。それは主イエス様が下さる水です。
 主イエス様は、だれにでも、望むならば必要な分、聖霊のお恵みと神のお言葉をくださいます。「あなたは、問題があるからあげません」とはおっしゃらない。立派な男にだけ与えるとも言わない。聖書には、この方はいかがなものかという女性に、イエス様は、生ける永遠の命に導く水を与えた記事があります。
 どうぞ、聖書をお開きください。新約聖書ヨハネによる福音書4章5節から読みます。
「それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍に、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時(正午ごろ)であった。一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、『わたしに水を飲ませてください』と言われた。弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。そのサマリアの女は言った。『あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。』ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。イエスは答えられた。『もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。』その女は言った。『主よ、あなたは汲むものを持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。』イエスは答えられた。『この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命への水が湧き出ます。』」
この後も、主イエス様とこの女性との対話は続いていきます。この女性は、ご主人を取っ替え引っ替えしていた女性で、この時も五人目のご主人と別れ、別の男性と同棲していた女性でした。主イエス様は、この女性の個人情報をよくご存じでしたが、決してこの女性を責めたり、批難したりなさいませんでした。ただ悔い改めを促し、イエスさまご自身が、命の水、永遠の命そのものであることを示されたのです。
 この世の人は、主なる神の憩いの汀に来ようとはしません。キリストを、命の水を求めようとしない。彼らは霊の代用品である快楽や知識を求める。この地上の快楽や知識は、決して霊的な充足をもたらしません。この世の人々は、インテリジェンスと呼ばれている知識人でも、学識、科学的な考察、学者としての成功、弁舌の豊かさ、風変りな演劇、良識を、それがどんなに優れていて人間の作り出したものであるならば、とうてい神の知恵には及びません。この世の快楽や知識を彼らは得ますが、それで満足することはありません。彼らはいつも不満があり、その霊は生き絶え絶えになっています。人間的なものは、人の霊にはなんの役にも立たないのです。主イエス様は言われます。「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にもたたない。」ヨハネ6章63節
「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。」同新改訳2017
神は霊であり、神はご自身に似せて、人を創造されましたから、「人を生かす」あるいは「いのちを与える」という「生」なり「いのち」は霊的な命のことです。人間的なものの中には、この世を生きるのに役立つ知識、学問、芸術は確かにあるでしょう。しかし、それらは永遠ではありません。一時的であり、この世限りの、早晩消えてなくなるものです。
 永遠のいのちにいたる水を持っておられるのは、主イエス様だけです。そして主イエス様はこの命の水を私たちに惜しむことなく下さるお方です。
 この水を飲み、この水に浸りませんか。
 主イエス様の方では、清い水を十二分に用意しておられる。この地上を渡っていくのに必要な生ける水ばかりか、天の御国にも私たちに住まいをも用意しておられます。主イエス様の身元に行きさえすれば、主は惜しまずくださるのです。
毎朝あなたは聖書を開き、御言葉と言う水を飲んでいますか。
昼間お仕事で、お働きでお疲れを覚えた時に、主の新しい力を求めて祈りますか。
夜寝る前、神の癒しを求め、その日一日の苦労を取り去ってくださるように主に願って床ついていますか。
そして日曜日、この日を主日として私たちは、主に召された愛する兄弟姉妹と共に、今私たちがしているように主を礼拝する、この良き習慣を続けていく、それが憩いの汀に来るということです。
主は我を緑の牧場にふさせいこいの汀に伴われるのです。私たちは、その憩いの汀で命の水を感謝していただこうではありませんか。

 ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―     説教「私には乏しいことが有りません」詩篇23篇講解説教②
  2023年5月7日 黒澤俊人勧士

聖書箇所 詩篇23篇1節b
「私は乏しいことがありません。」新改訳2017
「わたしには乏しいことがない。」口語訳
「私 は乏しいことがない。」共同訳
「I shall not lack.」 AMP
「I shall not be in want.」 NIV

先ほどは、詩篇23篇全節を朗読していただきました。この詩篇23篇には、賛美歌の曲名を記すかのように、タイトルが付けられています。曰く、「ダビデの讃歌。」
先ほど朗読していただきました通り、この賛歌の内容は、神の麗しさを讃えるもの、緑豊かな牧場に憩う羊を思い浮かぶ美しい詩です。当時の人々も、この詩篇を喜びを持って吟誦したことでしょう。
「わたしには乏しいことがありません」と主を讃えるこの詩篇は、真心から告白したダビデの唄です。今日は、一節の後半、「わたしには乏しいことがない」の短いみ言葉から語ります。新改訳2017では、「私は乏しいことがありません。」共同訳でも、「私は乏しいことがない。」となっています。
 この分節の最初のことばは、「わたしには」です。「わたしたちには」ではない。
「わたしには乏しいことがない」というこの文の主語は「わたし」であり、単数です。
作者のダビデが、独吟するような詩であり、音楽で言うと独唱歌であり、合唱曲ではありません。あなたはどうか知らないけれど、「わたしには」という感じがします。
 「私は乏しいことがありません。」新改訳2017よりも口語訳の「わたしには乏しいことがない」の訳がいいなと思います。私たちは、ひとりびとりが神の造られた作品、しかも傑作です。双子で瓜二つのように見える双子でも別の人格、異なる霊、心、体を持っています。
「わたしには」の言葉からもう一つ考えたいことは、私以外の他者のことです。この詩篇23篇は、ダビデの讃歌ですから、神をほめたたえる詩です。この讃歌を聞いていた人々もいましたし、今聞いている私たちもいます。

 「わたしには乏しいことがない」という御言葉と同じ主旨の御言葉が申命記2章7節に書かれています。
「事実、あなたの神、主はあなたのしたすべてのことを祝福し、この広大な荒野でのあなたの旅を見守っていたのだ。この四十年の間、あなたの神、主はあなたとともにいて、あなたには何一つ欠けたものがなかった。」
主がモーセに語られたお言葉として、モーセがその最晩年にイスラエルの民に語った言葉です。波乱万丈の120年間を過ごしたモーセの生涯のうち、80歳以降の40年間の荒野での旅路には「何一つ欠けたものがなかった。」と主なる神ご自身が言われ、モ-セもまたその通りだと受け止めています。
 この詩篇の作者ダビデの生涯は、約70年間(サムエル記下4章4節)、この詩篇23篇を作詞したのは、晩年のことと推測されます。モーセは80歳になってから神に召しい出されましたが、ダビデは青年初期に神に召し出されました。主は、預言者サムエルを遣わし、エッサイというユダ族の有力者の息子たちの中に、王になるべき人物がいるからエッサイのところに行きなさいと言われて、預言者サムエルは向かい、エッサイの長男から始めて次次に息子たちは面通しされるのですが、主の御旨にかなう人物はいなかった。末子ダビデを、父エッサイは呼び寄せなかった。多分未成年者だったからだろうと思われますが、しかしサムエルは末子で羊飼いの仕事をしていたダビデを呼んでくださいと父エッサイに願い、しぶしぶエッサイは末子ダビデを呼び、主は「さあ、彼に油を注げ」とサムエルに告げ、サムエルは末子ダビデに油注ぎをします。その日以来、主の霊がダビデの上に激しく下った、つまり主と共にいる日々がはじまります。
軍人として華々しいしいデビュー戦、敵の巨人ゴリアテを倒し、サウル王に見初められ若い軍指揮官となります。ペリシテ人との戦いにサウル王の軍団の一翼を担い、大きな戦功を上げ、人々は「サウルは千を討ち、ダビデは万を討つ」と賞賛した。これを聞いたサウル王は面白くない、ダビデを妬み、ダビデ殺害を図ります。謀反の意志がないダビデは困ってしまいます。やむを得ず、首都エルサレムから退避し、逃げ回っていたときの頃、ダビデとその従者たちが、サウル王の追捕軍をやり過ごすため、洞穴奥深くに逃げたことがありました。サムエル記上24章1〜7節 なんとその洞穴に、サウル王は用を足すために入った。奥にダビデが息をひそめているのをつゆ知らず、サウル用を足すのですから、部下たちは洞穴には入らない。用が大だったか、小だったか聖書は記していませんが、具足を外し、武器を脇に置き、無謀備になったサウル王を見て、ダビデの従者たちは、サウル王殺害をダビデに具申するも、ダビデは、従者の具申を退け、サウル王の外套の裾を切り取り、「サウル王は、神によって王になった。だから、この者がサウル王を殺すのを禁じられる」と従者に告げ、サウル王殺害を避けた。しかし権力の象徴である外套の裾を自分の意思で切り取ったことを悔やみ、以降ダビデは自分の力を思いのままに行使することはせず、ただただ主なる神のみ旨に全く従う姿勢を保持しようとします。それでも、ダビデの弱さでしょう、自分の欲を自制できなかった時、バテシバと不倫をし、その夫ウリヤを殺すという罪を犯し、与えられた権力を自分勝手に乱用した人口調査を命じて、過ちを犯してしまいます。ダビテは、その都度悔い改め、主はそれを見て赦し、再び恵みの内に回復なされました。主なる神、完全な牧者の牧場にいるならば、羊である自分は「乏しいことがない」と確信したのです。
 では、ダビデは豊かだったのかというと、全イスラエルの王になってからは、豊かであったでしょうが、それ以前は豊かな日々ではなかった。サウル王に付け狙われ、息子アブサロムの反乱もあり、命からがら逃げ回る日々を考えますと、とても豊かな生涯とは言えないでしょう。
「乏しいことがない」と言っているのであって、自分は満足で豊かであったとは言っていないのです。何事も過ぎたるは及ばざるがごとしで、欠けがあるというのは感心しないことですし、逆にありあまる、豊か過ぎるということもまた感心しないことだと思います。神のなさる事は過もなく不足もなく、それぞれ一人ひとりにとって、ちょうど良い最善最良のあしらいなのだということです。
 英語の聖書を見ますと、わたしには不足はないので、何も欲しがることはしませんという感じがします。

前回、言いそびれてしまいましたが、「主は私の羊飼い」という文は、現在形で記されています。この詩篇23篇全節、「主は」に続く動詞は全て現在形で記されています。1節の御言葉も同様に、「主は」、今「私の羊飼い」、過去はそうではなかったではないし、また未来は羊飼いではなくなるでもない。過去も、今も、そしてこれから先も未来永劫、主は私の羊飼いなのです。
今日のところ、「乏しいことがない」と唄ったダビデも、今現在も乏しくはない、過去も乏しくはなかったし、これからも乏しいことはないはずだ、なぜならこのように主を賛美しているこの者に、主が共にいてくださるからだ、という思いが感じられます。
 モーセの場合は、荒野での40年間でしたが、ダビデの場合は、全生涯にわたって乏しいことがない、いな聖書はこの詩篇を愛読する者に共に主がおられ、乏しいことがないといつも感じる、祝福された主の牧場に集う羊を思い起こさせます。

 主なる神が、一人びとりに、必要不可欠な恵みを、祝福をご用意なさっているということです。
この一節を読み、あなた自身は、「わたしには乏しいことがありません」と言い切れるでしょうか。
前回語りました通り、羊が羊飼いの世話を受けるように、私たちキリスト者は、ひとりびとりがイエス・キリストの世話を受けます。
 前回も申し上げましたけれども、羊は羊飼いの世話なしには生きていくことができませんし、オーナー羊飼いは羊たちに最大限の努力をする「良い羊飼い」です。したがって羊が羊飼いのもとにあるならば、羊たちはもうこれ以上欲しいという欲望は起こらない。
 オーナー羊飼いが、最善最良の世話を羊たちに施し、羊たちが緑の牧場に憩う姿を見る時が至福の時であるのと同様に、主イエス様は、私たち羊が、主の祝福の内に、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすのをご覧になるのを喜ばれることでしょう。

 しかし悲しいことに、オーナー羊飼いの提供する世話に飽き足らず、牧場の外にあるものに目が行き、牧場から出て行く羊がいる。実際に牧羊業を営んだ牧羊家の方がこう記しています。
「私の持っていた雌羊の中に柵をくぐりぬける名人がいた。彼女は私の持っていた羊の中で最もすばらしい羊であった。そのからだは美しく均整がとれており、そのつくりはしっかりとしており、すぐれた長い毛でおおわれていた。頭は清潔で、注意深く、輝いた目をしていた。彼女は成熟の早い強健な子羊を産んだ。しかしこのようなすぐれた性質にもかかわらず、彼女には顕著な欠点があった。彼女は落ち着かず、不満で、柵をくぐりぬける者であった。この『出歩き夫人』は大きな問題を引き起こした。彼女は、よく柵あるいは海岸線に沿って歩き回り、牧場の外に抜け出す穴を捜し求めていた。彼女に牧草地がなかったのではない。この地方で私の牧場の草は他の牧草地よりも良い草であった。『出歩き夫人』は私の牧草地に満足せず、しばしば柵を強行突破したり、引潮の時に鉄線の囲いの端をうまく回りこんで、隣地に抜け出すことが頻繁に起こすようになった。彼女は、結局、隣地の劣等な褐色に枯れているまずい草にあさることで終わったのである。しかし、彼女は決してそれで学ぶことをせず、何度も柵越えを続けた。彼女だけが柵越えをしただけでも、困ったことであり、わたしは彼女を連れ戻すだけで大問題でした。さらに問題を深刻にさせることが起こった。彼女は自分の子羊たちに柵越えの術を教えたのである。子羊たちはただ彼女の模範に従い、間もなく母親と同じように逃げ出すことが上手になった。もっと悪いことに、彼女は他の羊たちに手本を示したのである。短い間に、彼女はほかの羊たちを指導して柵をくぐらせ、海辺の危険な道を通らせた。彼女の反逆をひと夏がまんした後、私はついに群れのほかのものが落ち着きを失うことを避けるために、彼女は去らねばならないという結論に達した。一頭の頑迷な、不満な雌羊が牧場全体の運営をだめにしてしまうことは許せなかった。それは困難な決断であった。わたしは彼女を他の羊と同じように大切にしていた。彼女の力、美しさ、注意力は見ていて楽しかった。しかし、ある朝、私は屠殺用のナイフを取り、屠殺した。彼女の柵破りは絶たれた。ジレンマを解決する唯一の方法であった。彼女は、私が最善の世話をしたにもかかわらず、なお他のものを要求し続けた羊であった。彼女は「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。」と言った人のようではなかった。」
この牧羊家の言は、この世的なキリスト者、反キリストのみならず、半キリストも、神の世界とこの世の最も良いと思うもの双方を求める者への厳粛な警告です。かれらは場合によっては、主によってすぐにでも裁かれ絶たれることがあるかもしれません。

 対称的に「わたしには乏しいことがありません」と心から賛美をするある姉妹のお証しをさせていただきます。彼女のご両親は台湾人です。姉妹の父親は若い頃に、日本が東南アジアの油田開発に当たったときに、大手の石油会社の要請により彼女のお父さんを職長さんとして採用し、お父さんの配下に台湾人の労働者を配置させて石油採掘の竪坑を掘るきつい労働に当たらせたのです。お父さんは日本語が達者でしたから大手の石油会社がお父さんを重宝したわけです。お父さんは日本が好きになり、結婚したお母さんと共に、日本国籍を取得し日本人になりました。そして台湾から移住して千葉県の富里市に住みました。お父さんはクリスチャンではありませんがお母さんが熱心なクリスチャンでした。帰化して間もなく生まれたのが姉妹でした。ところが良かれと思って赤子の姉妹には、ヒソ入りミルクで授乳したので、両足にその影響がでて姉妹の足は細く短くなってしまい、歩くことができないお体でした。もの心ついて、歩けない体を嘆いたそうですが、母親の影響もあったのでしょう姉妹は教会に行くようになり、やがて福音に接し救われました。自分を造り、愛し、必要としておられる主なる神を知って、姉妹がご両親に恨み辛みを募らせた罪を悔い改め、姉妹を産み育ててられたご両親に感謝をするようになりました。仕事も成田空港関連の会社が与えられ、経済的にも祝福され、65歳の定年までご勤務され、今は、神から命をいただいた恵みに感謝する日々を送っています。姉妹はこの歩けない体もまた神の祝福であり、神はやがて栄光の体に変えてくださる、だからわたしは乏しいことはないと喜んでいます。

この世を主人とする生き方、或いはお金や権力を主人とする生き方を選ぶならば、この世は冷淡であり、あなたを配慮することなどない利己的な主人ですから早晩破滅が待ち構えています。
 先週、佐藤牧師は、「アダムとエバが、神の言葉よりも自分の思いや考えを優先させたことが罪である。」と説教されました。その通りだと思います。ダビデも先ほど申し上げましたとおり、神の掟よりも自分の欲望を優先したり、自分のために権力を行使した時に失敗しました。私たちも同様に、主イエス様の教えに従い、御霊の働きの一つである自制の実を働かせて、自分の思いは抑えることが、良い羊飼いのもとにいる羊なのです。主イエス様の支配の中にいる私たち羊に対し、主イエス様は、私たちに必要なものは、何一つ過不足なく与えてくださいます。私たちもまた乏しいことがない羊たちなのです。

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 説教「主の汀に憩う」詩篇講解説教③
  2023年3月19日 黒澤俊人勧士

聖 句   詩篇23篇
中心聖句 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます。2節

 今日は、礼拝式の後、定例教会総会を開催し、2022年度の歩みが守られた感謝を献げ、四月からはじまる新年度2023年度の活動計画を立てます。
今年、2023年が始まり、四月から始まる新年の御言葉を求めて祈ってまいりました。わたし個人に与えられた御言葉とは別に教会に与えてくださる御言葉を下さいと祈りましたが、神様は私のその求めに具体的な御言葉を示してくださいませんでした。そこで、皆さま方から寄せられた新年に与えられた御言葉の中からわたしが選べばいいのではないかと考えて、皆様から寄せられた御言葉を改めて見ますと、詩篇23篇を示された方がお三方おられます。これは神の示しと捉え、2節の御言葉を新年度の御言葉としたいと思い、総会資料に載せました。定例教会総会がこの後、開催されるに当たり、今朝はこの詩篇23篇2節を中心にして語りたいと思っています。

先ほど、朗読していただきました詩篇23篇には、羊ということばは書いてありません。しかし、1節に「主はわたしの牧者であって」口語訳 新改訳2017では「主は私の羊飼い。」 共同訳でも全く同じ「主は私の羊飼い。」とあり、この詩篇の作者、ダビデは、少年時代から青年期に、実際に父親エッサイの羊を牧羊する仕事をした(サムエル記上16章11節、17章15節)わけですから、羊の牧者、羊の牧場、羊のみぎわを想定しているに違いありません。作者のダビデは、その青年期には羊飼いであって、羊のことを熟知していました。羊は飼い主がいなければ、生きていけない弱い家畜です。「主は緑の牧場に伏させ」とダビデが吟じたときに、羊が緑の牧場に伏す光景、その光景を実現するために羊飼いがどれほど苦労するかを思い出していたことでしょう。

さあ、詩篇23篇2節をつまびらかに読んでいきましょう。
2節の前半に、「主は私を緑の牧場に伏させ」とあります。
羊の特徴的な性格の中に、羊が身を横たえて伏すためには、四つの条件が全部揃っていないと横になる事は無いのだそうです。
一番目は、恐れがない状態であるということです。羊は臆病なために、チワワのような小型犬に吠えられたら、悲鳴を上げて逃げ出す。一匹が逃げ出すと連鎖反応を起こし群れ全体がパニックに陥ることも充分ありうる、実際に起こるのだそうです。
二番目、仲間の羊と摩擦がない状態でないと横になれない。羊は群れで飼われ、群れの中に軋轢や争いがあると身を横たえることはない。
第三に、ハエや寄生虫に苛まれているならば、横にならない。日本を含み東南アジアのモンスーン地帯や雨の多い熱帯地域が牧羊に不向きなのは、昆虫類が多く生息し、羊が虫に苛まれるからです。
第四に、飢えてお腹を空かせているならば、身を横たえることはない。

逆に言うと、羊が十分に食料を与えられ、ハエや寄生虫にまみれていないきれいな体になっていて、仲間の羊たちと平和に暮らし、恐れがない安らかな気持ちになっているときに羊は、身を横たえる。

私たちクリスチャンも、霊肉共に糧が与えられ、霊肉共に世的寄生虫に苛まれず、仲間のクリスチャンと仲良くし、恐れを取り除く神の愛の内にあるとき、これら四つの条件が満たされたときに、魂は安らぎと平安を得る。

この四条件を四六時中確保できるのは、オーナー羊飼いだけです。
 オーナー羊飼いは、狼や野犬から羊を守るため自分の広い牧草地をぐるりと柵を巡らせ、自分の羊が柵の外に出ないようにします。柵の維持管理もします。柵の内側は、オーナー羊飼いの管理下にあり安全安心な空間であり、柵の外側は、危険な空間なのです。
 オーナー羊飼いは、羊同士がいさかいを起こさないように、群れが仲良く過ごすようにつとめます。羊は、羊飼いがいないと、群れの中の強い羊は弱い羊をいじめるのだそうです。美味そうな草場を独り占めするなど、強い羊同士が争うことも頻繁にあるのだそうです。オーナー羊飼いは、群れに軋轢や争いがあるとすぐに対応します。大抵は強い羊を諌める、弱い羊をかばうのが常です。オーナー羊飼いが常にそのように軋轢や争いを解消すると、群れはオーナー羊飼いが近くにいると、おのずと群れの中に争いがなくなります。
 オーナー羊飼いは、自分の羊がハエや寄生虫に冒されないように、虫がつきやすい、羊毛の薄いところ、鼻など羊毛のないところに香料入りの虫避け薬剤を塗ります。
 オーナー羊飼いのもとで、充分なエサと適切な手当を受け、羊たちは緑の牧場に伏し、まるまると太っていきます。オーナー羊飼いにとって、自分の羊たちが仲良く緑の牧場に伏す光景を目の当たりにするのは、最大級の喜びです。

2節の後半、「いこいのみぎわに伴われます」とあります。
「みぎわ」(共同訳聖書では「汀」)とは、陸地と水との境のところ、水際から来たことばで、水辺のことです。
 牧羊に最適の土地は、湿潤な地域ではありません。乾燥地帯です。羊は乾燥地帯の方がより良く成育するからだそうです。しかし、羊は他の動物と違いかなりの量の水を摂取する家畜です。
羊にとって良い環境とは乾燥地帯であり、羊が飲む水を確保するのはオーナー羊飼いにとって骨の折れる仕事です。
 どんな水でもよいと言うわけではないのです。羊にとってその生育にとって欠かせないのはきれいな水です。オーナー羊飼いはそのことをよく知っていますから、羊がきれいな水を飲むために最大の努力をします。すなわちいこいの汀に導くのです。
オーナー羊飼いは、夜が明けきれない朝方、早起きをして、自分の羊たちを広い牧草地に、畜舎から導き出し、朝露に濡れた新鮮な草を十分に食べさせます。たっぷりと朝露を含んだ草を食べる羊は、その日必要な水量は確保され、もう日没まで渇きを覚える羊はいません。朝露を含んだ草を十分食べた羊はもうその日は水の補給は必要ないのだそうです。
これは、朝一番に、主なる神にデボーション、個人礼拝をささげ、聖書の御言葉を味わい食べる幸いを彷彿させます。
朝露が降りない日もあるでしょう。羊の中には寝坊して朝露を含まない草を食べ損ねたものもいることでしょう。朝露を含んだ草を食べなかった羊は、日中になると猛烈な渇きが覚えるのだそうです。オーナー羊飼いはその渇きを知って、憩いの汀に導かれるのです。その渇きの故に、羊飼いが憩いの汀に導かれるその途中に、泥まみれになった水たまりに行こうとする羊が多いのだそうです。水たまりの水は動かないし、流れていない、きれいな水ではない。泥にまみれ、細菌や病原虫が繁殖している汚い水です。水溜まりの水を飲んだ羊は、確実にお腹を壊し、病いを患う。オーナー羊飼いは、水溜まりの水場に自分の羊を導くことはありません。汚い水たまりに向かおうとする羊を、羊飼いは杖を使って方向転換させる。それでも汚い水たまりから飲もうとする羊には、羊飼いは鞭を使って警告するでしょう。
 これは、魂をこの世的なもので満たそうとする不信仰者の姿です。この世の人は、魂の渇きを癒そうと、芸術、音楽、教養、文学などで満たそうとする。しかし一時的に心は満たされても、霊の渇きが癒されることはないのです。

 この詩篇23篇は、主イエス・キリストが最良の羊飼いであり、私たちが羊のような存在であることを示す御言葉です。主ご自身がそう言っておられる新約聖書の記事を読み、主の汀に憩う幸いを覚えていただきたいと願っています。御霊が直接皆様方に語りかけてくださるように願いつつ、
新約聖書ヨハネの福音書10章11~16節を朗読します。

「わたしは良い牧者です。(口語訳では「わたしは良い羊飼いである。」)良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。
「牧者ではない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。
彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。
わたしは良い牧者です。
わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。
ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分の命を捨てます。
わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧
者となるのです。」
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